Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“ひいてしまうひと”は、ひいてしまえばいいんじゃない

2009-12-30 03:05:24 | 日記
『カルチュラル・スタディーズ入門』を読み終わった。
この本は2000年の発行だから、もう10年ちかく前になるんだな。
書いている二人も当時40歳前の“若者?”だったが、もう50歳を目前にしているわけだ。
(どうも最近、歳のことが気になって、いかん;笑)

この一応イギリス発祥の“学問”については、いろいろ勉強になったよ。
しかし、最後の方の以下のような部分には共感できないぜ;

★ 正しい批判や分析や反省の言葉が、日常生活のある局面で、ある人々に対して一種の「恫喝」や「威し」になってしまうような文脈がある。つまり、植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実を強調すればするほど、あるいはここではないどこかの「受苦者」のおかれた現実の悲惨さに焦点を当てればそうするほど、聞き手の方はむしろ引いてしまう、というジレンマがある(言葉が相手を黙らせるとき、たとえそれが正しい内容であっても、それは一種の暴力として機能している)
(以上引用)


ここでこの筆者が、“なにを言いたいか”は、ぼくには、もちろん、わかります。

けれども、こういう文章を読むと、やっぱ大学のセンセイはダメだなー、と思う。

つまり《相手がむしろ引いてしまう》とか、《たとえそれが正しい内容であっても、それは一種の暴力として機能している》などと言えるのは、あまりにも“余裕”があるひとの態度なのである。

ぼくには、そんな余裕はありません。
つまり余裕があるってことは、<その問題が>自分の問題ではないってことよ。

あるいはそれは、<自分=ぼく=俺=warmgun>が言っている(書いている)ことがいつも<正しい>と思っていないということなんよ(笑)

さらに、《あるいはここではないどこかの「受苦者」のおかれた現実の悲惨さ》というのは、誰のことなんだろう。
もし《あるいはここではないどこか》というのが、《日本以外のどこか》を意味するなら、ここでこの筆者が言っていることは、まったく駄目だ。

たしかに、ぼくにとって、いちばん関心があることは、目前の自分の生活ですよ。

《植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実》
ではありません。

あたりまえだろ!(爆)

しかし、ぼくは《植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実》にも、関心をもつときがあるわけよ。

だから、ブログに“それ”を書くこともある(あった)かもしれない。
でもそれは、“引いちゃうひと”を<説得>するとか<啓蒙>するなどといった、“おそれおおい”ことじゃないんだ。

ぼくが、<ガザ>で負傷した女の子の写真や、おなじくガザで瓦礫に埋もれた少女の手の写真を出すのは、これを見た人を<恫喝>するつもりなんか、まったくないんだよ。

ぼくが、その時、見たかった写真なんだ。

ああ3時近くで眠くなって、もう書くのが(考えるのが)めんどうだ。

“暴力的でない言葉”なんて、あるわけないよ、それが言葉なら。

どうも基本的なことがわからないひとが多すぎて、<啓蒙>なんてしようがない。

もちろんぼくも、なんにも分かってなんかいない。

さあ、寝るぜ。





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