Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

あなたはいったい何に怒るのか?

2011-08-31 10:36:44 | 日記


今朝、茂木健一郎の連続ツイートを読んで怒りを感じた。

ぼくが何に怒りを感じるか、などということは、ぼく以外のひとにはドーでもいいことである。

たぶん“多くの人”は、この茂木健一郎ツイートに怒りを感じない。

“柔軟で無邪気だけれど、脳科学者なんだから、最新の知識を持っている(んだろう)”と応援しているのだ(笑)

茂木健一郎は、“あらかじめそれを繰り込んで”、このツイート(というか彼のすべての文章)を書いているのだと思う。

そのこと自体も、攻められるべきことではないだろう。

しかし、人間は“いいかげん”なものだが、やっぱり真剣になったり、ゆずれない一線というものがある(のではないだろうか)

以下に引用する茂木ツイートが、仏教とヴィトゲンシュタインについて述べているからといって、ぼくは“仏教とヴィトゲンシュタインの関係”について、特に異論があるということではない。

だいいち、正直に言うが、ぼくは<仏教>についても<ヴィトゲンシュタイン>についても、ほとんど知らない。

ぼくは、そういう“専門的論議”をしたいのではない。

しかし、いいかげんな、生半可な、“常識”をかざして、いかにもそれが“真理”であるかのごとき発言を、“セミ取り坊や”のようなノリで、無邪気さをよそおって発言し続ける人に(だって茂木健一郎は“少年”ではないはずである)、直感的な怒りを感じる。


その茂木健一郎連続ツイートの核心部分は以下の通り;

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(1)ある男が、いろいろ質問した。人間はどこから来たのか、死んだら魂はどうなるのか、天国や地獄はあるのか。世界はどうしてあるのか、それに対して、釈迦は、「私はそういう質問には答えない」と言った。いわゆる、「無記」の思想である。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(2)釈迦は言った。目の前に毒矢に当たって苦しんでいる男がいたら、その苦しみを助けてあげるのが先決だろう。矢はどこから飛んできたのか、誰が放ったのか、毒は何なのかという問いは二の次であると。「無記」は実践倫理であると同時に、深い認知哲学を含んでいる。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(6)ヴィトゲンシュタインの「言語論的展開」は、釈迦の「無記」によって先取りされている。「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」まさに語り得ないからこそ、生命にとっては大切なこととなる。論理哲学論考は、生命哲学の書でもある。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(9)言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある。特定の言葉にとらわれている人の精神は、すでに若々しさを失っている。硬直した認識は、「言葉」にすがろうとして、結局は「言葉」の海の中に自分を見失ってしまうのだ。
1時間前

(以上引用)




ヴィトゲンシュタインは、《言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある》などということを、言っていないと思う。

自分に都合のよいように、“他者”を引用することは、人間としてかなり劣悪な態度だと思う。

ぼくの“感じ”では、ヴィトゲンシュタインは、《言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある》などという<言葉>をこそ否定(拒否)したのだ。


“だから”生涯にわたって、“言葉について”(言葉をもちいて)考えたのだ。







最近引用したばかりだが、ヴィトゲンシュタインの言葉、ひとつ;

★ 人間が意志をはたらかすことができず、しかしこの世の中のあらゆる苦しみをこうむらなければならないと仮定したとき、彼を幸福にしうるものは何か。
この世の中の苦しみを避けることができないのだから、どうしてそもそも人間は幸福でありえようか。

ただ、認識の生を生きることによって。

<ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン:“草稿1914-1916”>





茂木健一郎氏も、むだなおしゃべりのヒマがあるなら、《認識の生》を深めていただきたい。

内田樹のような”おしゃべり”を見習わないで。








暴力の通過

2011-08-31 00:36:53 | 日記


★ あらゆるメディアのなかで、特に写真は「私」と「死」という概念に最も緊密にむすびついている。

★ 例えば自分を撮られた写真を見る時、人は無意識に死の時間のなかに自らを封印している。また何げない写真を見る時でも、人は多くの場合、自分自身のなかへ降りてゆかざるをえない。

★ 自分を撮られた写真においては、私は他者として現出し、自己同一性がよじれ、分裂する。

★ そして我々は気づかないのだが、その瞬間、とても小さな死を経験する。

★ 写真を見ていると、時折り奇妙な感覚におそわれてしまう。
もしかしたら、私は生の場から死と化した場を見ているのではなく、死の場から生の場をのぞいているのではないだろうか。

★ 人間の眼は生き物であり、それは膨らんだり縮んだり、記憶したり思いだしたりする。

★ しかし、こうした生物体である眼は20世紀において根本的に解体していったといえるだろう。そして、その過程において写真の果たした役割は大きい。

★ 人間の眼がとぎれてゆく、その一瞬を、そのはざまを写真は写しとっている。そのぎりぎりのところにあるはかなさ、かけがえのなさが写真にはしみわたっている。

★ その点こそ写真が映画やテレビと異なる特質でもある。そして今やその写真独特のそうした意味が新しいメディアの波のなかで急速に消え失せようとしている。

★ 写真は「歴史」と同じように19世紀中葉に生みだされ、写真のなかへ入るということは20世紀へ入るということと同じ意味をもっていた。

★ そこにはかつてあった人間たちの痕跡だけがたたえられている。
かつてあった私の痕跡だけが反響している。
まるで何か途方もない大きな暴力が通過したあとのように。

<伊藤俊治『20世紀写真史』(ちくま学芸文庫1992)>