Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ナイーブ-饒舌社会-意識の出現

2011-08-07 11:46:43 | 日記


☆ kenichiromogi 茂木健一郎
かそ(7)一人の人間にせよ、国家にせよ、なかなかうまくいかない時に、私たちは「もうダメだ」などと絶望してしまいがちである。しかし、実際には、努力を続けている限り、少しずつカードは揃い始めている。やがて、ある日、カードが揃って「ロイヤルストレートフラッシュ」になる。

☆ kenichiromogi 茂木健一郎
へり(4)変化し続けてさえいれば良い。それが生命の顕れであり、どこかに向かっている証しである。小林秀雄は、常々、絶対に壊れない舟のエンジンの話をしていたという。どんなにゆっくりでも、前に進んでいさえすれば、必ず「変化」という生命のもっとも大切な価値が担保される。
(ツイッター引用)



★ プラハ演説でどきりとさせられたのは、核なき世界への努力についてオバマ氏がにわかに厳しい顔になって述べたI’m not naïve(私はナイーブではない)というしごく簡明なせりふだ。日本語の「ナイーブ」は「繊細」とか「感じやすい」とか、なにやらよい意味あいでつかわれたりするけれど、ラテン語nativus(生まれながらの)に由来する英語では逆に「世間知らず」「魯鈍」といった侮蔑的で皮肉めいたひびきになる。在日大使館による参考訳は、まさに名超訳というべきか、「私は甘い考えはもっていない」である。(2009年7月)

★ だれしも思考のめぐりになかなか言葉が追いついていかないときがある。いいよどみやいい詰まりはそんなときにぽかっと生まれる。山奥の湖のように静謐な空隙であり、今日のようにやかましく中身のない饒舌社会にあってはいっそう新鮮で惹かれる。言葉と言葉のあいだにはさまれてあるそうした沈黙の湖の青みにこそ、じつは表現の玄奥が秘められているのではないか。沈潜する思念とそこからどうしても乖離して浮いてしまう言葉のあいだのたわんだ空間には、よくよく自省するならば、いまの世でいたずらに能弁であることそれじたいのいかがわしさや“恥”の感覚もただよう。(2009年10月)

<辺見庸『水の透視画法』(共同通信社2011)>



★ 毎晩パソコンを消す前に、彼はその日のうちにおおやけにされた実験結果のインターネット上でのサーチを予約した。翌朝その内容を読むたびに、今や世界じゅうどこの研究所でも、無意味な経験主義だけを頼りに、いよいよ行き当たりばったりに突き進んでいることがはっきりするのだった。何らかの結論を導くような結果は何もなく、それどころか理論的仮説の構築を可能にする結果すらまったく出ていなかった。

★ 個人の意識は、動物たちの系譜のただなかに突如として、一見いかなる理由もなしに現われた。ダーウィニズムの信奉者たちは、その無意識的合目的性の理論ゆえ、意識の出現に関してもいつもどおり自然淘汰の仮説を持ち出すだけで、何の説明にもならないのもこれまたいつもどおりのこと、まったく神話的虚構というにすぎなかった。

★ だがこの問題をめぐっては、人間中心主義的学説にもまったく説得力はなかった。世界は自らを眺めることができる目、自らを理解することのできる脳を自らに与えた――それでどうだというのか?これでは問題の理解は少しも深まらない。線形動物には見られない自己意識は、<ラセルタ・アジリス>といったごく普通のトカゲ類においてはあきらかに存在している。それはどうやら中枢神経組織の存在プラス・アルファに関係しているらしい。そのプラス・アルファがまったく謎のままなのだ。意識の出現はいかなる解剖学的、生化学的、細胞学的データとも結びつけようがないらしかった。困った状況である。

★ ハイゼンベルクならどうしていただろう。ニールス・ボーアならどうしていただろう。一歩下がった地点に立って、思索すること。田園を歩き、音楽を聴くこと。新しいものは単に古いものを改変するだけでは決して生まれない。情報を情報に加えてもそれは砂山を築くに等しく、その性質上、実験の場を規定する概念枠組によって結果は最初から見えている。今日研究者たちは、新たな角度をかつてなく必要としていた。

<ミシェル・ウエルベック『素粒子』(筑摩書房2001)>