Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

暴力の通過

2011-08-31 00:36:53 | 日記


★ あらゆるメディアのなかで、特に写真は「私」と「死」という概念に最も緊密にむすびついている。

★ 例えば自分を撮られた写真を見る時、人は無意識に死の時間のなかに自らを封印している。また何げない写真を見る時でも、人は多くの場合、自分自身のなかへ降りてゆかざるをえない。

★ 自分を撮られた写真においては、私は他者として現出し、自己同一性がよじれ、分裂する。

★ そして我々は気づかないのだが、その瞬間、とても小さな死を経験する。

★ 写真を見ていると、時折り奇妙な感覚におそわれてしまう。
もしかしたら、私は生の場から死と化した場を見ているのではなく、死の場から生の場をのぞいているのではないだろうか。

★ 人間の眼は生き物であり、それは膨らんだり縮んだり、記憶したり思いだしたりする。

★ しかし、こうした生物体である眼は20世紀において根本的に解体していったといえるだろう。そして、その過程において写真の果たした役割は大きい。

★ 人間の眼がとぎれてゆく、その一瞬を、そのはざまを写真は写しとっている。そのぎりぎりのところにあるはかなさ、かけがえのなさが写真にはしみわたっている。

★ その点こそ写真が映画やテレビと異なる特質でもある。そして今やその写真独特のそうした意味が新しいメディアの波のなかで急速に消え失せようとしている。

★ 写真は「歴史」と同じように19世紀中葉に生みだされ、写真のなかへ入るということは20世紀へ入るということと同じ意味をもっていた。

★ そこにはかつてあった人間たちの痕跡だけがたたえられている。
かつてあった私の痕跡だけが反響している。
まるで何か途方もない大きな暴力が通過したあとのように。

<伊藤俊治『20世紀写真史』(ちくま学芸文庫1992)>







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