Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

むかし、あるところで

2011-08-24 12:27:37 | 日記


★ 女は四日ごとに男の黒い体を洗う。まず、破壊された両足から。タオルを水に浸し、足首の真上にもっていって、ゆっくり絞る。男のつぶやく声に目を上げると、口元にかすかな笑みが見える。火傷は脛から上がいちばんひどく、それは紫色を通り越して……骨。

★ 女は何ヶ月も世話をして、男の体をよく知っている。タツノオトシゴのように眠るペニス。痩せた細い腰。キリストの腰、と女は思う。この人は絶望した聖人……。枕もなく仰向けに横たわり、天井に描かれた木々の葉の天蓋と、その向こうに広がる空の青さを見つめている。



★ 女はゆらめく光の下にすわり、本を読んだ。ときどき、部屋の外につづく廊下の暗がりに目をやる。屋敷は、少しまえまで野戦病院として使われていた。女のほかに何人もの看護婦が寝起きしていたが、戦線が北上し、みなほかへ移っていった。いま、戦争はほぼ終わろうとしている。

★ 女の人生で、独房からの唯一の出口を本に見いだし、猛然と読書をした一時期だった。本が女の世界の半分になった。いまも小さなテーブルに向かい、背中を丸めて、インドの少年の物語を読んでいる。

★ 本はまだ女の膝の上にある。だが、気がつくと、もう5分以上も17ページから進んでいない。女は紙の表面の粗さと、誰かが目印に折り曲げたページの隅を見ている。手で紙をなでたとき、心の中で何かが動いた。天井裏のネズミのように……?夜、窓の外を飛ぶガのように……?



★ 翌日、油布に覆われて横たわる私の耳に、また切れ切れのガラスの音が聞こえてきた。暗闇からとどく風鈴の音。夕暮れにフェルトがはがされたとき、男の頭をのせたテーブルが見えた。それがこちらへ運ばれてくる……が、目を凝らすと、それは巨大な天秤棒をかつぐ男だった。天秤棒からは長短さまざまの紐や針金が垂れ、そこに何百という小瓶が結ばれている。男の体はガラス瓶のカーテンに包まれ、その一部となってしずしずと近づいてきた。

★ 男は大股でゆっくり近づいてきた。足取りは滑らかで、瓶はほとんど揺れない。ガラスのうねりと大天使。瓶の中の塗り薬は日光で温まり、皮膚にすりこめば、傷に特別の治療効果を発揮するだろう。男の背後には、変色した光の束。青やその他の色が、もやと砂のなかにふるえている。かすかなガラスの音、色彩のきらめき、王者の歩行、引き締まった黒い銃身のような男の顔……。



★ ベッドもほとんど残っていないが、女は気にしなかった。ベッドで寝るより、屋敷内での放浪生活のほうがいい。わらぶとんやハンモックを抱え、天気や気温に応じてイギリス人の患者の部屋に寝たり、廊下に寝たりする。朝になれば、また寝具を丸め、転がせるよう紐でしばっておく。ようやく暖かくなってきたいま、女は閉ざされていた部屋をいくつもあけて歩いた。よどんだ暗闇に新鮮な空気を入れ、日光ですべての湿り気を追い出す。夜、壁を吹き飛ばされた部屋で寝ることもあった。わざわざ部屋のへりにわらぶとんを敷き、星の動きと雲の流れを見ながら眠りにつく。ときには、夜半の雷と稲妻で目をさます。このとき、女は二十歳。完全に正気とはいえず、身の安全には無関心だった。

<M.オンダーチェ『イギリス人の患者』(新潮文庫1999)>