Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

1974年秋

2011-08-30 01:57:05 | 日記


さて下記ブログのような“感想”をいだいて、ぼくは床に積んである文庫本のなかから、1冊を取り出してみる。

この本は昔、単行本で読んだことがある。
この本を死んだ母に貸したこともあったように思う。

まず巻末の“単行本あとがき”を読んでみる;

★ この「ノート」は、「朝日ジャーナル」昭和49年10月4日号から、昭和50年10月3日号まで、一年間、連載したものである。その間、世界と日本は、政治的経済的に、第二次大戦以来最大の激動期をむかえ、また、人間と文化が根底的に問われざるをえなかった「時」でもあった。この「ノート」は、その内乱状態の、つかのまの空白と沈黙のなかから生まれた。



まず、《昭和49年10月4日号から、昭和50年10月3日号》という日付がいつのことなのか、とっさにわからない。

ぼくは、元号が苦手である。
しかし“昭和45年”が“1970年”であることを思い出し(その年にぼくは大学を卒業し就職した)、換算して、昭和49年が1974年であることに思いいたった(笑)

しかし、1974年から1975年の一年間が、どのような《内乱状態》であったのかは、とっさに思い出せない(つまりいろいろ記憶を、思い出さねばならない)

ぎょっとしたのは、田村隆一の次の文章である;

《この3月で、ぼくもやっと53歳になった。》

すなわちこの単行本が刊行された1976年(昭和51年)に田村隆一は《53歳》だったのだ。
現在のぼくは、64歳である。

いったい、いつの間に、ぼくは53歳の田村隆一より年上になってしまったのか!


ぼく自身にしか意味のないブログを書いた(笑)

この本の最初にかかげられた西脇順三郎の詩;

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ



もう長い間、鉛筆をけずっていない。
ましてその木屑を燃やして、そのにおいを嗅いだこともない。
閉じる門もない。


今夜もまだ蒸し暑い。
けれども、ぼくにも今年の秋は、まだ、来るらしい。


* 上記の本は、田村隆一『詩人のノート』(講談社文芸文庫2004)







感想

2011-08-30 01:02:16 | 日記


今日たまたま読んだ本に(というかその本の解説に引用されていた)言葉がある。

カール・レーヴィットというひと(真珠湾攻撃の半年前まで東北帝大で教えた)の言葉;

《かれらは、それ自体として見知らぬものを、じぶん自身のために学ばない》

この場合、《かれら》とは日本人のこと。

《それ自体見知らぬもの》とは、“ヨーロッパの学問(とくに哲学)”のことらしい。

しかし、《かれらは、それ自体として見知らぬものを、じぶん自身のために学ばない》という言葉は、日本のヨーロッパの学問の受容に当てはまるだけでもなく、また太平洋戦争へ向かってゆく日本という“ある時期”に特有のものでもない、と思える。

たとえば、“現在の日本人”にとっても、<日本>自体が、《それ自体として見知らぬもの》でしかないと思える。

“日本人”であるわれわれが、《(日本という)それ自体として見知らぬものを、じぶん自身のために学ばない》のである。

つまり、《ヨーロッパの学問》とか、《日本文化》とか、《アメリカ合衆国》とか、《西欧近代》とか、《写真の歴史》とか、なんでもいいのだが、《それ自体として見知らぬものを、じぶん自身のために学ばない》ことが、すでに習性と化している国にわれわれは暮らしている。

なぜか“グローバル世界-認識”に過剰な自信をいだいて。

どんな《見知らぬもの》も解説してみせる“有識者”とか、どんな《見知らぬもの》も検索できるネットがあるかのごとき幻想をまったく疑わない人々が、なんだかしらないが《学んでいる》気になっているだけである。

たしかにテクノロジーは、それなりに“進化”したようだが、日本人の欠陥はまったく本質的に変わらない、とぼくには思える。

もちろん、上記の感想は、もはや昨日となった民主党代表選と、それを報じたり解説したりするメディアによってもたらされた、現在のぼくの感慨である。


なにがいちばんひどいかについて、ランキングをつけることは不可能というより、徒労である。

けれども、ぼくはこれらの情報を、テレビとインターネットによって見ている。

そこに映し出される映像にも、言葉にも、まったくなにひとつ“意味”を受領できない。

スーツを着た人形が、なにかパクパク口を動かしているだけである。
あるいはパソコン画面を、うつろな文字が左から右へ流れていくだけである。

われわれは、巨大な精神病院に収容されることに、あまりも長い年月、慣れきって、もはや異常をノーマルと感受するほど、ビョーキが進行してしまったように思える。


マルグリット・デュラスの小説の主人公のように、こういうほかはない;

★ でも、気が狂ってるというのは、やはり悲しいことですわ。もしほかの人たちが気違いだとしたら、その中でわたしはどういうことになるのかしら?(『ヴィオルヌの犯罪』)

ちなみにこう語っている、女主人公も精神に異常をきたしていると思われる。