Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

気持いい

2011-08-03 23:04:36 | 日記


godard_bot Jean-Luc Godard
大事なのは自分は存在していると感じるということなんだ、われわれは一日のうちの大半はこの真実を忘れてすごしているものだが、それも、家々とか赤信号をながめているときに突然、この真実がうかびあがってくる。―ゴダール
(引用)


なぜこの発言が、気持いいのだろうか。

やたら発言する人、メディアに露出しているひと、テレビで、新聞で、雑誌で、講演で、大学で、カルチャーセンターで、そしてさらに・さらに“ソーシャル・メディアでも”発言しまくる人。

新幹線に乗っても、飛行機に乗っても、ベルリン、パリ、上海、ロス、アテネ、イスタンブール、ヴェニス、ニューデリー、カイロ、福島、那覇、バリ島etc.(どこでもいいよ!)でも“つぶやき続ける”人々。

風呂場でも、台所でも、トイレでも、なにを食べても、朝起きて快調でも不調でも、飲んだ時もシラフの時も、なにか言わないとおさまらない人々(笑)

しかも彼らの言っていることは、いつも“ほぼ正しい”のである((ほぼ正義!である)

すなわちソウユーひとびとは、ケータイとかパソコンに何か入力している時しか、存在していない、のである。







異物

2011-08-03 22:51:44 | 日記


★ 戦争中の話はもう繰り返したくないが、必要なことだけいうと、1944年、フィリピンの駐屯地で、近い死が予想された時、私は再び自分の生涯を回想した。その時私は35歳、人生の道の半ばにいたわけだが、私は過去の詳細を検討して、私とはつまらない人間だ、フィリピンの山野で、無意味に死んでも惜しくはない人間だ、という結論に達した。

★ 同じ人間について、60歳を過ぎて、同じ質問を発しても、結論は別になるはずはない。「汝自身を知れ」との神託は、古代ギリシアの権威によって、哲学的に神秘化されているが、われわれは同じことを「身の程を知れ」という諺でいう。この回想もそういう謙遜を旨とする。自己を卑小化しすぎることを避けないつもりである。

★ 想起には合理化と造話を伴わずにいないであろう。過去の映像の再現自身、快感を伴っている。それは30年前、フィリピンの兵舎の暗闇の中で、過去を「検討」した時にもあった。64歳になった現在、同じ作業を行う私にも同じ快感があって、私の叙述の客観性を損なわずにはいないだろう。生活の活力を失った老人の、回想によって生涯をもう一度生き直したい、という願望に繋がっているとすれば醜態である。ただ現在の私には過去の経験を意識の領域に繰り込む作業に対する渇きのようなものが続いている。「失われし時を求めて」のような美辞麗句を私は好かないが、自分の過去は意識されないままに残り、今日の自分との連続がわからない異物があるような気がする。

★ それが気になって3年前から自分の生涯の回想を書く試みを始めた。私の記憶がはじまる麻布笄(こうがい)町の家や、氷川神社前、稲荷橋付近のことは別に「幼年」という題名で書いた。スタンダール同様、「私は」、「私の」と繰り返すのはてれ臭いので、私自身を渋谷という環境に埋没させて語った。同じことをこれからも続けるつもりだが、大向橋の家へ引越した時、私は10歳になろうとしている。この回想では少し「私」が出しゃばることになるかも知れない。

<大岡昇平『少年』(講談社文芸文庫1991)>







A Moveable Feast

2011-08-03 14:36:20 | 日記


★ もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
                    ある友へ
                    アーネスト・ヘミングウェイ 1950年
<ヘミングウェイ『移動祝祭日』(新潮文庫2009)>


★ それは彼女にとって忘れがたい会話だったろう。1961年3月のある日、夫と共にアリゾナで休暇をすごしていたハドリー・モーラーのところに一本の電話がかかってきた。
声の主は34年前に別れた最初の夫、アーネスト・ヘミングウェイその人だった。ヘミングウェイは言ったという。実はいま、きみと暮らしたパリ時代の思い出を綴っているんだが、二、三、どうしても思い出せない事柄があるんだ。あの頃、若い作家たちを食い物にした男女がいたんだが、なんという名前だったかな?

★ そうね、アーネスト・ウォルシュとエセル・ムーアヘッドだったかしら、と答えながら、ハドリーは久方ぶりに聞く前夫の声に、深い疲労と悲哀の色を感じとって胸を衝かれたという。ヘミングウェイ死す、の報に彼女が接したのはそれから3ヶ月余り後のことだった。
<ヘミングウェイ『移動祝祭日』解説=高見浩>


★ 『われらの時代』を書き継いでいたとき、青年ヘミングウェイはどんな日々を送っていたのだろうか?

★ 彼はパリで暮らしている。モンパルナス通りの裏通りにあたるノートルダム・デ・シャン通り113番地。そこにある製材所の上階の、ガスも電気も引かれていないアパートメントで、彼は愛妻のハドリーと、生まれて間もない愛児“バンビ(ジョン)”と共に暮らしている。小説家を志してアメリカからパリに移住して3年目。すこしでも生活費を稼ぐべく引き受けていた『トロント・スター』紙の通信員仕事もいまは辞め、貧困に耐えながら、彼は創作一筋に打ち込んでいる。

★ 古いアパートメントが立ち並ぶ、細い、静かな裏通りを、ヘミングウェイは歩きはじめる。どこかの窓から、焼きたてのパンのこうばしい香りが漂い降りてくる。パリにもどってきてよかった、と彼はつくづく思ったことだろう。その年の2月、ハドリーの出産もあって一時帰国していたアメリカからもどってきて以来、創作は順調に捗っていた「雨のなかの猫」、「ある決別」、「インディアンの村」、「兵士の故郷」、「エリオット夫妻」、「クロス・カントリー・スノウ」。わずか3ヶ月のうちに、これだけの作品がすでに仕上がっていた。そして彼の脳裏にはいま、故郷ミシガンで暮らしていた頃、友人と三人で釣りのぼった川の清冽なたたずまいが、くっきりと浮かんでいる――。

<『ヘミングウェイ全短編1 われらの時代・男だけの世界』(新潮文庫1995)解説=高見浩>