以下にマーティン・ジェイの『マルクス主義と全体性』(国文社1993)の終結部分を引用する。
この本の原本が刊行されたのは、1984年のアメリカである。
この“1984年”を考慮する必要がある。
すなわち、“ベルリンの壁”も“ソ連”も崩壊していなかった。
“9.11”も“イラク戦争”も、“3.11”も起こっていない。
1984年6月フーコーは死んだが、ドゥルーズ、デリダは生きていた。
すなわち、1984年から2011年の間に、<起こったことの歴史>と<言説の歴史>は積み重ねられている。
“その時=いま”、2011年8月に、ぼくが日本では1993年に翻訳出版された本を読むのは、偶然である。
またぼくが、この本の終結部分を、ここに、引用するのも、まったくの偶然である。
だから、どーってことでもない。
ただ、“歴史”が、あるのである、“やはり”あるのである。
“そこで言われていること(そこに書かれていること)”は、数式の“真理”のようにあるわけではない。
だから、読むことには限りがない、結論はない。
結論がなくていい、とか、結論はあるべきでない、というのではない。
ただ安易に結論し、安心するわけにはいかない。
シニシズム、冷笑、誰かを“馬鹿にして”すませるわけにもいかない。
わけしりの“伝統的(慣習的)正義=倫理”の知恵に依拠することもできない。
ここでは、“マルクス主義”が正しいか、“ポスト構造主義”が正しいかの、二者択一があるのではない。
あるいは、“マルクス主義VS.ポスト構造主義”という問題だけがあるのでは、ない。
★ 多くの批評家が主張するように、もし全体性が終結と死を意味し、差異と欲望の非同一性の終焉を意味しているのであれば、[それと同じ程度には] 世界の破滅の脅威は、我々がこの全体というものにいっそう真剣に取り組むことを要求しているのである。
★ 「普遍的」知識人に対して「特殊領域の」知識人といわれる人びとが、フーコーやその他の人びとの勧めに従って反全体論的な個別主義に逃げ込むようでは、この議論の余地のない現実に立ち向かうことはできない。核兵器による [破滅という] 全体化を回避する手段を見出すことができないかぎり、ポスト構造主義者が好む無限の祭り的な戯れは、彼らにかぎらず誰もが望まないほど突然に、しかも決定的に、有限なものに終わってしまうかもしれない。そして我々のこの惑星での生存を規定する複雑な相互関係性を認めないかぎり、この問題の解決はおそらく期待できないだろう。
★ したがって、有効な全体性概念への模索――すでに見てきたように、この模索は西欧マルクス主義のなかに生きているのだが――、これをただ単に、過去の充足への盲目的な郷愁だとか、あるいは自分たちが他の人間たちを支配する権利を正当化しようとする知識人のイデオロギーだとして、片づけてしまうべきではない。なぜなら、人類が核による破局という否定的な全体化を避けるためには、我々はその代わりとなる何らかの肯定的全体化を求める必要があると考えられるからである。
★ 全体化の概念を批判するために幾度となく利用されてきた哲学者 [=ニーチェ] がかつて述べたように、デカダンス [=退廃] とは、「全体から生が消えうせた」状態を意味する。たしかにニーチェは、彼を賞賛するポスト構造主義が飽くことなく主張するように、デカダンスのさまざまな種類のすぐれた分析者あったかもしれないが、彼は、これと同じ程度に、生という新しい全体性の名のもとでそのデカダンスの誘惑にうちかつことを切望してもいたのである。
★ ハーバーマスは別として、西欧マルクス主義の全体性についての言説がここでいわれるるような(注:アドルノの省察)没落の途を辿ったのだとしても、その瓦礫の下には、真に擁護可能な全体性の概念の萌芽が――そしてさらに重要なこととして、自らを裏切らないような解放的な全体化の可能性が――無言のまま、しかし力をみなぎらせて隠れ潜んでいると期待するのは、あまりにも非現実的であろうか。もしそれが非現実的だとすれば、我々はおそらく本当の終結に遭遇することになり、そして人間の文化が戯れにではなく真摯に脱構築されるということの本当の意味が思い知らされることになるだろう。しかしこうした結末を回避できるとすれば、そのいくらかは、西欧マルクス主義者がさまざまな欠陥に苦悩しつつも、事象を全体としてとらえるために驚嘆すべき英雄的な努力をつづけたその遺産に負うことになろう。
★ 彼らが立てた問いは――たとえ彼らの差し出した答えは間違っていたとしても――依然として正しいのである。近い将来にもっと良い答えを期待できるという根拠は希薄である。しかし、探究を諦めてしまうことは、我々が人間であるかぎり抵抗して立ち向かうべき運命を受け入れてしまうことに等しい。
<マーティン・ジェイ『マルクス主義と全体性 ルカーチからハーバーマスへの概念の冒険』(国文社1993)>
◆ この本で取り上げられた主な人びと;
ルカーチ、コルシュ、グラムシ、ブロッホ、ホルクハイマー、マルクーゼ、アドルノ、ルフェーヴル、“シュールレアリスト”、ゴルドマン、サルトル、メルロ=ポンティ、アルチュセール、デラ・ヴォルペとコレッティ、ハーバーマス、“ポスト構造主義”