Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

なにが変わったか

2011-08-11 13:10:04 | 日記


下のブログを書いて、読みかけの辺見庸『水の透視画法』を開いた。

まず“ヘルニアとおかっぱ女”(2010年2月)を読んだ。

次に“くぐつとグンタイアリ”(2010年3月)を読んだ、引用する;


★ 前を歩いていた身なりのよい男が、ゆっくりと輪郭をくずし床にへたりこんだ。けっしてバタリと倒れたのではない。そのように想像しがちだが、バターの棒でもとけるように躰がくずれはじめ、一定の時間をかけてクニャクニャとへたって尻もちをついたのである。叫び声はなかった。(略)これも新聞やテレビの報道からは想像しがたいけれども、私が目撃した被害者の顔には微苦笑みたいなあいまいな笑みがうかんでいた。だが、ほんとうは笑いなんかであるわけがなく、神経がやられ筋肉がゆるんでしまったための、いってみれば、“なごやかな苦悶”の表情なのだった。その男のうしろを歩いていた若い女性も、のどをおさえて無言でヘナヘナとかがみこんだ。ひどい二日酔いだった私は、意味をはかりかねてなんどもまばたきした。光景にたぐられるように古い日本語が胸にうかんだ。この国の闇の濃さにもかかわる気味のわるいひびきである。くぐつ。

★ 月曜朝のラッシュアワーだった。絶対多数の通勤者群はグンタイアリよろしくわき目もふらず改札口めざして殺到していたのだ。(略)グンタイアリの奥には、床に脚をだらりとなげだし、背中を壁にあずけた男女が横一列に5人ほどへたばっていたのだ。笑顔にも見える表情とうらはらに、よだれを流したり吐いたりしていた。この段階ではまだパトカーのサイレンも泣き声も怒声もない。一方、勢いよく改札口をめざす通勤者群はじつに一途で器用でもあった。なげだされた幾本もの脚をひょいひょいと跳びこえ、けっして立ちどまろうとはしなかったのだから。

★ くぐつという言葉がうかんだのは、神経ガスを吸ってへたりこんだ人びとの姿に、あやつり糸の切れた人形を連想したからだが、それだけではない。うち倒れた人を助けるのではなく、躰をまたいでまで一心に職場へと急ぐ通勤者らも、まだ糸の切れていないくぐつのように私には見えたのだ。(略)一体一体のくぐつは、くぐつ師にあやつられているかぎりにおいては生き生きと芸をこなし、忠実このうえない。しかしくぐつ師のいないくぐつには、いかなる主体的意思も魂もなく、くその役にもたたない、でくにすぎない。くぐつ師にたくみにあやつられてこそ、くぐつの幸せはある。もうろうとした頭でしきりにそうおもったのは、長くつとめた会社をそろそろ辞めたくなっていたからであった。

★ 1995年3月20日早朝、地下鉄日比谷線神谷町駅の現場には、まだ正式事件名が冠されてはいなかった。おどろおどろしい命名の瞬間まで、人びとは日常のイナーシア(慣性)にしばられる。(略)神経ガス被害者の一人を右肩でささえ地下構内からやっとのことで地上にでた私は、警察の黄色い規制線の外側に、ふたたび群なすアリを見た。テレビと新聞の記者たちである。開いた口がふさがらなかった。マスコミ・グンタイアリたちはわいわい勢いづき、まだ駅構内に入りもせず現場をろくに見てもいないのに、「パニック」だの「衝撃」だの「恐怖」だのとわけしり顔で報じていたのだから。しかして、私の視圏にあったグンタイアリはただの一匹としてサリン被害者を自社報道車両にのせて病院に運ぼうとはしていなかった。救急車が足りず被害者が多数地べたに横たわっていたのだが。

★ せんだって地下鉄が神谷町駅を通りすぎたときに、暗がりで突如のどになにかを詰められたような恐怖におそわれた。(略)無差別サリン・テロにくわわった青年たちも、じつは、くぐつでありグンタイアリだった。さて、大本のくぐつ師の正体は明かされたのか。グンタイアリはむしろ増えている。







感情的じゃ、ダメかしら

2011-08-11 11:35:00 | 日記


たとえば内田樹と辺見庸を比べてみたい。

ぼくは内田樹ブログの“愛読者”であり、一方、現在辺見庸の最新刊『水の透視画法』を読んでいる。

そこで、“はなはだしい対照”を感じざるを得ないのだ。

ここで内田樹最新ブログと辺見庸『水の透視画法』“あとがき”を比較引用したい。

あらかじめ言っておけば、内田樹も辺見庸も、とても“完璧なひと”とは思えない。
しかし当然、誰も完璧ではなく、当然、“ぼく”も完璧なひとではない。
だから、“それはいい”のだ(笑)

じゃあ、なにが問題なんだろう?


引用しよう。

例1:内田樹ブログ“歩哨的資質について”から;

☆ 先日、こんな記事を読んだ。
大阪京都両府警の捜査官が広域事件について打ち合わせしたとき、京都府警の刑事が「こういう事件もあるんです」と、ある空き巣事件の容疑者の写真を大阪の刑事に示した。打ち合わせが終わって外へ出て10分後に大阪府警の刑事は近くの競艇場外発売所近くでその容疑者を発見した。
この捜査員は雑踏の中から指名手配犯などをみつける「見当たり捜査」の専門家だったそうである。
「そういうものだ」と思う。
彼らは警察官の視野から逃れようとする人々が発する微細なオーラを感知する能力を備えている。
「職務質問」というのは組織的にやるものではなく、「挙動不審」な人間をピンポイントして行うものである。
「挙動不審」というのは、チェックリストがあって、そのスコアが高い場合にそう判断するというものではない。
遠くにいる人間の、わずかな眼の動きや呼吸や心拍数の変化のようなものが「際だって感知される」場合にそう言われるのである。
そういう能力を持っている人が警察官になるべきであり、これまではなってきた。
警察という制度はそのような能力を勘定に入れて制度設計されている。
私たちは刑事ドラマを見ているときに、刑事たちが街中であまりにも容易に挙動不審な容疑者と偶然遭遇するのを「ご都合主義」だと嗤うことがあるけれども、警察の捜査というのは、もともと「そういうもの」なのである。
だが、挙動不審な人間を感知する能力や嘘をついている人間とほんとうのことを言っている人間を直感的に見分ける能力などは、その有無や良否をエビデンスによって示すことができない。
本来は捜査員の採用のときには、「そのようなエビデンスをもっては示すことのできない能力」の有無を基準に採否を決すべきなのである。
でも、エビデンスをもっては示すことのできない能力の有無の判定にはエビデンスがないので(当たり前だが)、現在の公務員採用規定ではこれを適用できない。
そのせいで、わが国の司法システムは劣化したのだと私は思っている。
(引用)


◆ 感想

ぼくもなにごとにも《エビデンス》が必要だとは思わない。
しかし“この例”は、おかしい。

《挙動不審な人間を感知する能力や嘘をついている人間とほんとうのことを言っている人間を直感的に見分ける能力》
というのは、いかにして可能なのか?

内田元教授は、そういう能力を持った人間を《見分ける能力》が自分にあると、自己認識しているのか。

もしそういう自惚れがあるなら、それこそ内田教授の思考能力が《劣化して》いるのではないか。

蛇足であるが、ぼくは警官に“職務質問”された体験がある(笑)



例2:内田樹ブログ“感情表現について”から;

☆ 人は「自分らしく」ありさえすればよい。
それ以外のすべての社会的行動規範は廃絶されるべきである。
この二十年ほどそんな話ばかりだった。
だが、そう主張した人々は「感情の成熟」ということについてどこまで真剣に考えていたのだろうか。
私たちは子どものときは「子どもらしさ」を学習し、それから順次「男らしさ/女らしさ」や「生徒らしさ」や「年長者らしさ」や「老人らしさ」を学習してゆく。さらには育児や老親の介護を通じて、「子どもに対する親らしさ」や「(親に対する)子どもらしさ」といった変化技を学習してゆく。
さらに職業によって「クラフトマンシップ」や「シーマンズシップ」のような固有のエートスを身につけてゆく。
そのようにして習得されたさまざまな「らしさ」が私たちの感情を細かく分節し、身体表現や思考を多様化し、深めてゆく。
感情の成熟とはそのことである。
「感情の学習」を止めて、「自分らしさ」の表出を優先させてゆけば、幼児期に最初に学習した「怒り、泣く」といったもっともアピーリングな「原始的感情」だけを選択的に発達させた人間が出来上がる。
そのような人間であることは、今のところ、まわりの人々の関心と配慮を一身に集めるという「利得」をもたらしている。
「怒っている人間、泣いている人間は最優先にケアすべき幼児だ」という人類学的な刷り込みが生きているからである。
けれども、今、私たちの社会では、「過度に感情的であることの利得」にあまりに多くの人々が嗜癖し始めている。
それは私たちの社会が、「大人のいない社会」になりつつあるということを意味している。
そのことのリスクをアナウンスする人があまりに少ないので、ここに大書しておくのである。
私はこの文章を書きながらぜんぜん怒らずに「怒り」について書くということは可能かどうかわが身を用いて確かめてみた。
さて、その可否はいかがでしたでしょうか?
(引用)



◆ 感想

上記の文章が何を言っているかを、まず要約しよう。

《自分らしさ》を優先したため、《過度に感情的》なひとばかりになって、《大人がいない未成熟な社会》になってしまった、ということである(らしい)

こういう言い方は、一見、“正しい”よーに見えるのである。

しかし、さっぱり正しくはないのである(笑)

ぼくには、この内田教授の主張は、“まったく逆”であると思える。

現在のこの社会のどこに、“自分らしい感情表現”をしているひとがいるというのか!

《アピーリングな「原始的感情」だけを選択的に発達させた人間》

というのは、内田樹元教授の“ような”ひとのことではないだろうか。



例3:辺見庸『水の透視画法』“あとがき”から引用

★ 連載はこれまでいくつも手がけてきたけれども、『水の透視画法』はいくぶんこころがまえがちがった。たとえば『もの食う人びと』では、不特定できわめて多数の読者を漠然と想定しながら書いた。『水の透視画法』はちがう。わたしははじめて、たったひとりの読者だけを相手に、ひとりだけをよすがに書きつづけた。

★ いいかえれば、「多数者の常識」に依拠するのではなく、読者の個人性、ひとり性、絶望的なまでの孤独と不安をよりどころに、文をしたため、それをひとりびとりの胸のふかみにととけようとした。成功したかどうかはわからない。ただここではっきりいえることはある。わたしは『水の透視画法』を執筆中、精神がかつてなく自由でいられた。なぜだろうか。

★ おそらく、マスコミが宿命的に依存し、それがためにファシズムさえもあおってしまう多数者の常識を、連載中あえて無視することができたからではないだろうか。それがわたしの精神の自由をささえた。

★ 『水の透視画法』を、時代が劇的にシフトしているこのときに、おそらくは世界という舞台の骨格ががらがらとくずれ、暗転しつつある現在に、個のかぎりない自由のあかしとして刊行できることは、わたしにとってまれな幸運である。わたしからひとりの読者への、これは精神の架橋でもある。

(引用)



ぼくは現在、『水の透視画法』を少しずつ読みすすめ、後半に達したところである。
そこで辺見庸が書いていること“すべて”に心から共感するわけではない。

しかし、この“あとがき”のメッセージはとどいた。

たとえば内田樹を始めとするマスコミに出まくりの“タレントども”は、この震災=原発事故によって、なにひとつ自らの言説を動揺させていない、のである。

つまり、彼らにはなにも起こらなかった







暴動

2011-08-11 08:37:57 | 日記


ぼくの気のせいかもしれないが、ネットを見ている限り、“英暴動”の報道がネグレクトされているように思われるので、ロイターの記事を参照する(この記事自体も充分とはいえないが)

“暴動”に関心を持つのは、暴動を支持するためではない。

一般に、なにかを判断するためには、まず現実に起こっていることを(なるべく)把握する必要がある。
現在のメディアに欠けているのは、この<原則>であると思える。

事件=出来事=事実をろくに見ないで、いつもいつも“自分の思い込み”だけで語る言説だけが、氾濫する。

つまり、なにが現実に起こっても、まるでなにも起こらなかったようにするために、言説が機能するのだ。

ぼくたちは、そのことを震災=原発事故によっても学んでいない。

“賛成か反対か(支持するか支持しないか)”の結論が、最初に来るのではない。

“出来事”の複雑な過程そのものに、直面するのだ;



[ロンドン 9日 ロイター]

 男性射殺事件に端を発してロンドンから始まった暴動は英国各地に拡大。今回の一連の暴動では、参加する若者たちがソーシャルメディアを駆使して仲間を集めるなど、民主化を求めて若者が立ち上がった民衆革命「アラブの春」に共通する特徴も表れている。
 しかし、アラブ地域の若者たちが建設的な変化を望んだのに対し、英国の暴動は略奪行為や感情を爆発させることにフォーカスしている点など、明らかな相違点もある。
 世界を見渡せば、失業率を悪化させた金融危機が、若者全体に自分たちが求めるものとは程遠い機会しか与えられていないと感じさせ、若者が未来への希望を見いだせないところまで来ているのかもしれない。
 先進国で金融危機が起これば、ほぼ確実に未経験労働者らがしわ寄せを受け、新卒者の求人から工場労働の求人に至るまで、若者から雇用機会を奪ってしまう。少子高齢化社会で増え続ける社会保障費を支える世代の若者にとって、経済の低迷は満たされない感情を増幅させている。
 暴動が起きたロンドン東部ハックニーの電気技師、エイドリアン・アンソニー・バーンズさん(39)は、「とても悲しく思う。しかし、若者は職も未来もない。(暴動に参加した)若者たちは、われわれとは違う世代で何も気にしない。事態は始まったばかりだ」と話した。

<緊縮>
 今回の暴動では、特に二つの要素が勢いに拍車をかけたとみられている。1点目はソーシャルメディアの普及で、即座に仲間を呼び組織的な暴動が行われた。2点目は経済的変化で、以前から存在した窮状を悪化させた。
 英国では、財政再建のために打ち出された緊縮財政策によって、すでに顕在化していた社会問題がさらに深刻化。緊縮財政策では、青少年支援事業など「必要がない」とされた公共サービスへの予算が大幅にカットされた。
ソーシャルメディアの活用に関しては、今回は主にスマートフォン「ブラックベリー」の匿名メッセージ機能が利用され、若者たちの暴徒化をあおった。また加熱するメディア報道が、別の地域の若者を便乗させた。この事象はエジプトの民衆革命が衛星放送の報道やツイッターなどによって各地に拡大した点と共通する。
 英諜報機関の政府通信本部(GCHQ)の元高官で、現在は王立統合防衛安全保障研究所(RUSI)の上級研究員を務めるジョン・バセット氏は、「政変が起こったカイロや略奪のあったトットナムに限らず、ソーシャルメディアが国家と個人との間のパワーバランスに変化をもたらしているようだ」との見解を示した。
 またバセット氏は「今の世の中には、ソーシャルメディアとともに生きる若い世代と、強い自信を持てない警察官や官僚の世代が存在する」と続けた。
 経済成長期において政府は、暴動に対処するため治安部隊への予算を拡大させるか、暴動が沈静化した後、被害を受けた地域への補償を行う措置を取ってきた。
 ただ、こういった措置は、市場などが求める緊縮財政策の対応に追われている国々では、実施が困難になってきている。財政危機の渦中にあるギリシャやスペイン、イタリアでは、ロンドンのような混乱はみられないものの、若者が政府への抗議の先頭に立っている。

<不満>
 ロンドンに拠点を置くコンサルティング会社AKEのアナリスト、ルイーズ・タガート氏は、「暴徒化する若者たちの不満は共通している。英国だけの話ではない。当局が問題に対処しなければ、暴動がさらに拡大する危険もある」と警鐘を鳴らす。
 暴動鎮圧対策の一つとしてロンドンの警察当局は、暴動に参加する若者たちの親に対し、子どもたちの暴力的行為を抑えるよう訴えている。これについて専門家らは、家族や地域社会が一体となって取り組むことが事態改善につながるとみているものの、解決には抜本的な対策が必要だと強調する。
ソーシャルメディア自体も短期的ではあるが、解決策の一つとして利用されている。ロンドンの住民らは9日、ツイッターを使って「暴動クリーンアップ」作戦の実行を呼び掛けたほか、あるウェブサイトでは、身元の特定に役立ててもらおうと略奪犯の写真が掲載された。
 政権崩壊にまで至った「アラブの春」から得られた教訓の一つは、暴動鎮圧に武力を行使しても効果的ではないということ。中東シリアの治安部隊は、反政府デモ弾圧で数百人を殺害したが、デモのうねりを鎮めることはできていない。
 社会心理学者で行動経済学者でもあるピーター・ブッツィ氏は、「政府はソーシャルメディアと地域社会の代表者らを通して、若者と向き合う必要があり、希望のメッセージを発するべきだ」とした上で、「現代の問題の多くは、社会経済と文化的融合の欠如に起因しており、それが喪失感などを生んでいる」と解説する。
 これから先、短期的には警察をはじめ経済界や政界は、さらなる暴動に備える必要がありそうだ。来夏にはロンドン五輪を控え、政党の党大会も都市部で開催される予定になっており、これらのイベントは暴動発生のリスクを考慮した上での開催を迫られる。
 IHSジェーンズの欧州治安問題担当アナリスト、カリーナ・オライリー氏は「背景に経済的、政治的要因があるが、これは真に『政治的』と呼ぶことはできない」と指摘。「これは虚無的であり犯罪行為だ。怒りに満ちた貧困層の若者は、暴動は実行可能で罰を逃れられるものだと感じている」と若者の感情を分析した。
(ロイター日本語ニュース 執筆:Peter Apps記者、翻訳:野村宏之、編集:本田ももこ)

(以上引用)



ぼくが見ている“有名人”ツイッターでの反応も乏しい(なんのためのツイッターか!)

平野啓一郎は書いていた;

★ 今回のロンドンの暴動について、主張も何もなく、ただ暴れたいだけ、と言う人がいるけど、仮にそうだとしても、問題は、なんでこれだけの人が「ただ暴れたくなる」のかなんじゃないの? 暴動の背景を、参加者自身が言語化しない/できないからと言って、背景がないわけではない。