Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ぼくはデモに行きたくない

2011-08-29 12:01:16 | 日記


柄谷行人発言(2011.6.17 『週刊読書人』 ロングインタビュー
★ 昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

★ 不買運動はいいと思いますが、今のところ、まずデモの拡大が大事だと、僕は思う。その中から自然に、そういう運動が出てくればいい。先程言った「就活嫌だ」というようなデモでもいい。とにかく何か事あれば、人がデモをするような市民社会にすることが重要だと思います。それが、主権者が存在する社会です。一昔前に、人類学者が『ケータイを持ったサル』という本を書きました。若い人たちがお互いに話すこともなく、うずくまってケータイに向かっている。猿山みたいな光景を僕もよく見かけました。たしかに、デモもできないようでは、猿ですね。しかし、ケータイを棄てる必要はない。ケータイをもったまま、直立して歩行すればいいわけです。つまり、デモをすればいい。実際、今若者はケータイをもって、たえず連絡しながら、デモをやっていますね。そういう意味で「進化」を感じます。

(引用)


上記引用文を“批判”したい。

まずぼくの立場を明らかにしておく。
“原発”に関することなら、ぼくは“原発推進=原発擁護”派の言うことなど、まったく聞く気がない。

ぼくにとって“問題”なのは、反原発派の言論である。

しかも当然、現在問われていることは、“原発問題のみ”ではない。
3.11福島原発事故で、問われているのは、“すべての問題”である。

だから、“この問題”について、さまざまなアプローチ(思考=行動)があってよい。
またこの“すべての問題”について、ただちにすっきりした“正解”を提示できるなどということはない。

すべてのひとが、“まちがう”だろう。
しかし、歴史は、そのようにしかない。

もし“哲学史”や“思想史”のどこかで、“正解”が提示されているなら、なぜぼくらは、現在も考えるのだろうか?

“正しい社会”が実現されているなら、あるいは“正しい社会”が実現されていなくてもそのビジョンが描けるなら、なぜぼくらは、現在の昏迷と不満と限りないあきらめにとどまっているのだろう?

柄谷行人は、近年、ぼくが“読もうとしてきた”日本の思想家のひとりだった。

ぼくは“文学青年”ではなかったが、ぼくの思考のキャリアでは、小林秀雄、江藤淳、吉本隆明、柄谷行人のような、一般に“文芸評論家”と分類されるひとから、“社会問題”についてもアプローチするということしかできなかった。

“社会科学”では、なかった(丸山 眞男ではなかった)
その偏向を訂正しようと、大澤真幸のような“社会学者”の本も読もうとしたが、結局、そこでも、“文学”が現われた。

一方柄谷行人は、“世界共和国”、“アソシエーション”、“世界史の構造”のひとになった。

ぼくは『世界共和国へ』、『トランスクリティーク』を読み、平行して柄谷の過去の本をボチボチ読んできた。

そして岩波版『定本柄谷行人集』を読んでいるどこかで、いきなり嫌になった。
最新刊『世界史の構造』も書き出しを読んで、ストップした。

このぼくの読書体験についても、“ぼくがまちがっている”可能性がある。
ぼくは過去にも、“大江健三郎”をストップしたことがあり、現在、読まなかった大江健三郎の“過去の本”を読みつつあるから。

上記柄谷行人引用文(発言)も、一見、すべて正しいように見える。

ぼくの“批判”は、<なぜ柄谷はデモに行くことをアッピールするのか?>である。
柄谷自身がデモに行くのは、かまわない。

ぼくが、柄谷から聞きたいのは、“自分が書いた本を読め”ということである。

もし“本を読む”ことが、“デモに行く”ことより劣るならば、なぜ本を書き、本を読むのか?

しかも、自分が、本を読み=書くことで自己形成し、それを職業(収入の手段)としてきた者が、なぜ、自分が書いた本や自分をつくった本を軽んじて(書を捨てて)街頭に出ることに“しか”意味がないなどとの“古典学説”をいまさら教示するのか!(笑)

あたりまえだが、ぼくは、なんら権力(“力”だ!)を持たない無名の人々(ピープルだ!)が、自己を表現するため街頭に出ることに、まったく反対ではない。

しかし、“それ”は、まったくの自発性である。
だれかに動員されたデモなど、烏合の衆にすぎない。

自発的な人々が、“利権のみの権力”を倒すため、この都市空間を埋め尽くすことを、ぼくが望まないことがあろうか。

まさにこの“自発性”は、天から降ってくる声に誘導されるのではない。

日々の生活と読書からしか、こない。

タイトルに掲げたように、現在、ぼくはデモに行く気がしない。

“おっくう”なのだ(まあ、“年齢”のせいもあります)

現在の言説に、ぼくを鼓舞し、立ち上がらせる(街へ出る)ものがない。
自分の読書、にもない(だからぼくの読書はまったく不充分だ)


♪だけど、こころは、すぐ変わる♪(笑)







丸山健二

2011-08-29 09:38:58 | 日記



★ maruyamakenji 丸山健二
 ひとたび独裁者とその国家を成立させてしまうと、これを抹殺し、崩壊させるにはかなりの犠牲を伴う。問題は初期段階において彼のような人物を英雄として崇めてしまったことにあるのだが、この大きなミスが後々まで祟るのだ。英雄視に値する人間など絶対に存在しないことを肝に銘じておくべきだ。
21時間前


★ maruyamakenji 丸山健二
 原発事故と称されていることは、事故ではなく、まさに犯罪であることを忘れてはならない。それも凶悪な、国家的な、いや、世界的な大犯罪なのだ。だから、裁かれなければならない。A級戦犯に値する者は大勢いるのに、かれらは今のところ見え透いた謝罪と低姿勢のみで大罪を免れようとしている。
2時間前


(以上引用)





この丸山健二発言は、現在の<状況>に対して発せられている。

この言葉を、<歴史>へとフィードバックして、考える必要がある。


すなわち、”歴史上”、《英雄視に値する人間など絶対に存在しない》。

あるいは、《歴史的犯罪》について。