今日たまたま読んだ本に(というかその本の解説に引用されていた)言葉がある。
カール・レーヴィットというひと(真珠湾攻撃の半年前まで東北帝大で教えた)の言葉;
《かれらは、それ自体として見知らぬものを、じぶん自身のために学ばない》
この場合、《かれら》とは日本人のこと。
《それ自体見知らぬもの》とは、“ヨーロッパの学問(とくに哲学)”のことらしい。
しかし、《かれらは、それ自体として見知らぬものを、じぶん自身のために学ばない》という言葉は、日本のヨーロッパの学問の受容に当てはまるだけでもなく、また太平洋戦争へ向かってゆく日本という“ある時期”に特有のものでもない、と思える。
たとえば、“現在の日本人”にとっても、<日本>自体が、《それ自体として見知らぬもの》でしかないと思える。
“日本人”であるわれわれが、《(日本という)それ自体として見知らぬものを、じぶん自身のために学ばない》のである。
つまり、《ヨーロッパの学問》とか、《日本文化》とか、《アメリカ合衆国》とか、《西欧近代》とか、《写真の歴史》とか、なんでもいいのだが、《それ自体として見知らぬものを、じぶん自身のために学ばない》ことが、すでに習性と化している国にわれわれは暮らしている。
なぜか“グローバル世界-認識”に過剰な自信をいだいて。
どんな《見知らぬもの》も解説してみせる“有識者”とか、どんな《見知らぬもの》も検索できるネットがあるかのごとき幻想をまったく疑わない人々が、なんだかしらないが《学んでいる》気になっているだけである。
たしかにテクノロジーは、それなりに“進化”したようだが、日本人の欠陥はまったく本質的に変わらない、とぼくには思える。
もちろん、上記の感想は、もはや昨日となった民主党代表選と、それを報じたり解説したりするメディアによってもたらされた、現在のぼくの感慨である。
なにがいちばんひどいかについて、ランキングをつけることは不可能というより、徒労である。
けれども、ぼくはこれらの情報を、テレビとインターネットによって見ている。
そこに映し出される映像にも、言葉にも、まったくなにひとつ“意味”を受領できない。
スーツを着た人形が、なにかパクパク口を動かしているだけである。
あるいはパソコン画面を、うつろな文字が左から右へ流れていくだけである。
われわれは、巨大な精神病院に収容されることに、あまりも長い年月、慣れきって、もはや異常をノーマルと感受するほど、ビョーキが進行してしまったように思える。
マルグリット・デュラスの小説の主人公のように、こういうほかはない;
★ でも、気が狂ってるというのは、やはり悲しいことですわ。もしほかの人たちが気違いだとしたら、その中でわたしはどういうことになるのかしら?(『ヴィオルヌの犯罪』)
ちなみにこう語っている、女主人公も精神に異常をきたしていると思われる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます