Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

感情的じゃ、ダメかしら

2011-08-11 11:35:00 | 日記


たとえば内田樹と辺見庸を比べてみたい。

ぼくは内田樹ブログの“愛読者”であり、一方、現在辺見庸の最新刊『水の透視画法』を読んでいる。

そこで、“はなはだしい対照”を感じざるを得ないのだ。

ここで内田樹最新ブログと辺見庸『水の透視画法』“あとがき”を比較引用したい。

あらかじめ言っておけば、内田樹も辺見庸も、とても“完璧なひと”とは思えない。
しかし当然、誰も完璧ではなく、当然、“ぼく”も完璧なひとではない。
だから、“それはいい”のだ(笑)

じゃあ、なにが問題なんだろう?


引用しよう。

例1:内田樹ブログ“歩哨的資質について”から;

☆ 先日、こんな記事を読んだ。
大阪京都両府警の捜査官が広域事件について打ち合わせしたとき、京都府警の刑事が「こういう事件もあるんです」と、ある空き巣事件の容疑者の写真を大阪の刑事に示した。打ち合わせが終わって外へ出て10分後に大阪府警の刑事は近くの競艇場外発売所近くでその容疑者を発見した。
この捜査員は雑踏の中から指名手配犯などをみつける「見当たり捜査」の専門家だったそうである。
「そういうものだ」と思う。
彼らは警察官の視野から逃れようとする人々が発する微細なオーラを感知する能力を備えている。
「職務質問」というのは組織的にやるものではなく、「挙動不審」な人間をピンポイントして行うものである。
「挙動不審」というのは、チェックリストがあって、そのスコアが高い場合にそう判断するというものではない。
遠くにいる人間の、わずかな眼の動きや呼吸や心拍数の変化のようなものが「際だって感知される」場合にそう言われるのである。
そういう能力を持っている人が警察官になるべきであり、これまではなってきた。
警察という制度はそのような能力を勘定に入れて制度設計されている。
私たちは刑事ドラマを見ているときに、刑事たちが街中であまりにも容易に挙動不審な容疑者と偶然遭遇するのを「ご都合主義」だと嗤うことがあるけれども、警察の捜査というのは、もともと「そういうもの」なのである。
だが、挙動不審な人間を感知する能力や嘘をついている人間とほんとうのことを言っている人間を直感的に見分ける能力などは、その有無や良否をエビデンスによって示すことができない。
本来は捜査員の採用のときには、「そのようなエビデンスをもっては示すことのできない能力」の有無を基準に採否を決すべきなのである。
でも、エビデンスをもっては示すことのできない能力の有無の判定にはエビデンスがないので(当たり前だが)、現在の公務員採用規定ではこれを適用できない。
そのせいで、わが国の司法システムは劣化したのだと私は思っている。
(引用)


◆ 感想

ぼくもなにごとにも《エビデンス》が必要だとは思わない。
しかし“この例”は、おかしい。

《挙動不審な人間を感知する能力や嘘をついている人間とほんとうのことを言っている人間を直感的に見分ける能力》
というのは、いかにして可能なのか?

内田元教授は、そういう能力を持った人間を《見分ける能力》が自分にあると、自己認識しているのか。

もしそういう自惚れがあるなら、それこそ内田教授の思考能力が《劣化して》いるのではないか。

蛇足であるが、ぼくは警官に“職務質問”された体験がある(笑)



例2:内田樹ブログ“感情表現について”から;

☆ 人は「自分らしく」ありさえすればよい。
それ以外のすべての社会的行動規範は廃絶されるべきである。
この二十年ほどそんな話ばかりだった。
だが、そう主張した人々は「感情の成熟」ということについてどこまで真剣に考えていたのだろうか。
私たちは子どものときは「子どもらしさ」を学習し、それから順次「男らしさ/女らしさ」や「生徒らしさ」や「年長者らしさ」や「老人らしさ」を学習してゆく。さらには育児や老親の介護を通じて、「子どもに対する親らしさ」や「(親に対する)子どもらしさ」といった変化技を学習してゆく。
さらに職業によって「クラフトマンシップ」や「シーマンズシップ」のような固有のエートスを身につけてゆく。
そのようにして習得されたさまざまな「らしさ」が私たちの感情を細かく分節し、身体表現や思考を多様化し、深めてゆく。
感情の成熟とはそのことである。
「感情の学習」を止めて、「自分らしさ」の表出を優先させてゆけば、幼児期に最初に学習した「怒り、泣く」といったもっともアピーリングな「原始的感情」だけを選択的に発達させた人間が出来上がる。
そのような人間であることは、今のところ、まわりの人々の関心と配慮を一身に集めるという「利得」をもたらしている。
「怒っている人間、泣いている人間は最優先にケアすべき幼児だ」という人類学的な刷り込みが生きているからである。
けれども、今、私たちの社会では、「過度に感情的であることの利得」にあまりに多くの人々が嗜癖し始めている。
それは私たちの社会が、「大人のいない社会」になりつつあるということを意味している。
そのことのリスクをアナウンスする人があまりに少ないので、ここに大書しておくのである。
私はこの文章を書きながらぜんぜん怒らずに「怒り」について書くということは可能かどうかわが身を用いて確かめてみた。
さて、その可否はいかがでしたでしょうか?
(引用)



◆ 感想

上記の文章が何を言っているかを、まず要約しよう。

《自分らしさ》を優先したため、《過度に感情的》なひとばかりになって、《大人がいない未成熟な社会》になってしまった、ということである(らしい)

こういう言い方は、一見、“正しい”よーに見えるのである。

しかし、さっぱり正しくはないのである(笑)

ぼくには、この内田教授の主張は、“まったく逆”であると思える。

現在のこの社会のどこに、“自分らしい感情表現”をしているひとがいるというのか!

《アピーリングな「原始的感情」だけを選択的に発達させた人間》

というのは、内田樹元教授の“ような”ひとのことではないだろうか。



例3:辺見庸『水の透視画法』“あとがき”から引用

★ 連載はこれまでいくつも手がけてきたけれども、『水の透視画法』はいくぶんこころがまえがちがった。たとえば『もの食う人びと』では、不特定できわめて多数の読者を漠然と想定しながら書いた。『水の透視画法』はちがう。わたしははじめて、たったひとりの読者だけを相手に、ひとりだけをよすがに書きつづけた。

★ いいかえれば、「多数者の常識」に依拠するのではなく、読者の個人性、ひとり性、絶望的なまでの孤独と不安をよりどころに、文をしたため、それをひとりびとりの胸のふかみにととけようとした。成功したかどうかはわからない。ただここではっきりいえることはある。わたしは『水の透視画法』を執筆中、精神がかつてなく自由でいられた。なぜだろうか。

★ おそらく、マスコミが宿命的に依存し、それがためにファシズムさえもあおってしまう多数者の常識を、連載中あえて無視することができたからではないだろうか。それがわたしの精神の自由をささえた。

★ 『水の透視画法』を、時代が劇的にシフトしているこのときに、おそらくは世界という舞台の骨格ががらがらとくずれ、暗転しつつある現在に、個のかぎりない自由のあかしとして刊行できることは、わたしにとってまれな幸運である。わたしからひとりの読者への、これは精神の架橋でもある。

(引用)



ぼくは現在、『水の透視画法』を少しずつ読みすすめ、後半に達したところである。
そこで辺見庸が書いていること“すべて”に心から共感するわけではない。

しかし、この“あとがき”のメッセージはとどいた。

たとえば内田樹を始めとするマスコミに出まくりの“タレントども”は、この震災=原発事故によって、なにひとつ自らの言説を動揺させていない、のである。

つまり、彼らにはなにも起こらなかった







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