Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

おことわり

2010-12-14 17:11:17 | 日記


見れば、わかる通り、これまでの“黒バック・白抜き文字”を変更しました。

これは、“黒バック・白抜き文字”が読みにくいという天の声に答えるとともに、自分の目もどんどんヨレヨレになって、自分でも読みにくい(笑)のに対応するもの。

しかし、これまでの“黒バック・白抜き文字”にぼくの目が慣れているので、この方が読みやすいかは、さだかならず。

字を大きくしたいのだが、いまのところ、画面右上の“文字サイズ変更”で<大>をいちいち選ばざるをえず(なんか固定化する方法あるの?)

まあ、<大>を選んでよ(笑)


このブログの文字が読みやすくなったところで、このブログが読みやすくなるわけではありません。






精神のやまい+ランボーの手紙

2010-12-14 12:52:26 | 日記


★ 精神的に「病む」ことを問うにあたって「病む」ことを語る学問の特質を問うのは当然であろう。もしも「病んで」ゆくのが精神病者だけではなく、精神病理学そのものであったなら、いな、われわれ自身すらも「病みつつ」あるのなら、われわれは根底からすべてを問いなおさなければならない。

★ われわれは「狂気」という言葉を安易に使えない時代に突入してしまっている。(略)神ならぬわれわれにとっては、ただ<力としての歴史>と<自然生命直接的事態>とが織り成す謎めいた緊張感のみが唯一最奥の問題になりうるだろう。

<渡辺哲夫『20世紀精神病理学史』(ちくま学芸文庫2005)>




★ あなたは結局のところ、御自分の原則のなかに、主観的な詩(ポエジー)しか見ておられないのです。あなたが教職に就いて食べていこうという考えを捨てきれないことが――暴言、お許しください!――そのことを証明しています。しかしあなたはとどのつまり自己満足した人間、つまりなにもしようとは思わなかったので、なにもしはしなかった人間になってしまわれることでしょう。あなたの主観的な詩がつねに変わらずひどく味気ないだろうということは、申し上げるまでもないことですが。

★いつかきっと(略)あなたの原則のうちにぼくは客観的な詩を見ることでしょう。(略)――ぼくは将来労働者になるでしょう。狂ったような憤怒がぼくをパリの戦闘へと急き立てるいまこのときに、ぼくを引き留めるのはこの考えです。――でもパリでは、ぼくがいまこうして手紙を書いているあいだにも、多くの労働者が死につつあるのですが!いますぐ労働するなんて、いやですよ、絶対に。ぼくはストライキ決行中なのですから。

★ 現在、ぼくは放蕩無頼の限りを尽くしています。なぜとおっしゃるのですか?ぼくは詩人になりたいのです。そして、自分を「見者(ヴォワイヤン)」にしようと努めているのです。(略)問題なのは、あらゆる感覚を壊乱させることを通して未知なるものへ至ることです。(略)私は考える、というのは誤った言い方です。ひとが私を考える、と言うべきでしょう。――言葉遊びの点は許してください。

★ 私とは一つの他者なのです。木片がヴァイオリンであることになっても仕方ありません。それで、無自覚な人々、自分がまったく無知なことに関して屁理屈をこねる人々に向かっては、鼻先であしらっておきましょう!

<アルチュール・ランボー:教師イザンバールへの手紙(青土社『ランボー全詩集』1994)>






“最初から破綻している”

2010-12-14 10:46:06 | 日記


先日ぼくもこのブログで取り上げた“東京都青少年保護育成条例の改正問題”について、北海道の国語教師堀裕嗣君が<最初から破綻している>というブログを書いている。

けっこういろんな“論点”があり、ぼくが共感できる部分とそうでない部分があったし、現役の教師である立場上、表現を慎重にせざるを得ない部分も感じられた。

しかしそのタイトル<最初から破綻している>は、よい。

彼のブログから2箇所引用させていただく;

☆しかし、「太陽の季節」になぜ性描写が必要だったのかというある種の〈芸術性〉の問題を考えても、「太陽の季節」がなぜあれほどの爆発的なヒットを飛ばし、石原裕次郎をあれほどまでのスターダムに押し上げたのかというある種の〈大衆性〉の問題を考えても、どちらも現在に移行すれば漫画問題と構造的に相似形を為すのはずだと考えるのは穿っているだろうか。

☆ナボコフの「ロリータ」が、川端康成の「眠れる美女」が、或いはリュック・ベッソンの「レオン」が、ある種の少女趣味的性描写を指摘され、規制を受けるとしたら、知事・副知事をはじめ、都議たちは反対しないのだろうか。漫画の性描写はその延長線上にありはしないか。
(以上堀裕嗣ブログ引用)



しかし、『太陽の季節』をぼくは高校生か予備校通い時代に(すなわち1960年代中頃に)読んだが、その時、すでに“古臭い”と思った。

当時ぼくが“ある種の芸術性”(当時ぼくにそういうボキャブラリーはなかったが)を感じたのは、大江健三郎の「奇妙な仕事」や「死者の奢り」であった。

つまり堀裕嗣の言いたいことはわかるが、漫画であろうとブンガクであろうと“性描写”自体の問題があると思うのである。
(「奇妙な仕事」や「死者の奢り」には、直接的に性描写はなかったと思うが)

大江健三郎という作家にとっても、直接の“性描写”はあまり成功していず(“性交”していず;笑)、ぼくはむしろ、防腐剤プールに浮かぶ死体や処分される野犬の吠え声に、エロティシズムを喚起されたものだった。

「ロリータ」、「眠れる美女」、「レオン」の組み合わせは、なかなか魅力的である(笑)<追記>

さすが、昔、<神に通じる少女>というブログを書いた堀裕嗣の、面目躍如である。
しかし、石原慎太郎都知事は、ぼくwarmgunより、“古い”。
ここでも「ロリータ」を“理解した”のは大江健三郎であった。

ぼくは堀君が、現役の教師として、アクチュアルな<少女>を知っていることに期待するが、堀君の“J-POP”的エロティシズムに対する過剰な感性には、疑問を禁じえない。


☆ こうした「おたく」、そして「オタク」という新たな世代の中から、宮台真司・大塚英志・岡田斗司夫・東弘紀……といった明晰な頭脳が出現したこともまた紛れもない事実だ。いま、文学の代替物として、「新世紀エヴァンゲリオン」や「デス・ノート」が文芸誌上で真正面から取り上げられ、分析・検討されていることも紛れもない事実である。漫画やアニメというメディアが、いわば「新しい芸術」として時代を席巻しているのは確かなのである。そして芸術と性描写とが切り離せないものであるという言説に石原慎太郎は与し、いまもなおまず間違いなく賛同するはずなのではないか……。(堀裕嗣ブログ)


そうだろうか?
“宮台真司・大塚英志・岡田斗司夫・東弘紀”を《優秀な頭脳》と断定することは、安易ではないだろうか。

そして石原慎太郎に対する評価は、完全にまちがっているのではないか。

石原が、《芸術と性描写とが切り離せないものである》と理解できるなら、こんな愚劣で過去の遺物の復活でしかない条例が、この西暦2010年において大手を振るうはずはない。


<最初から破綻している>ひとは、そうとういる。





<追記>

ぼくとしては、このリストに「都会のアリス」を付け加えたい。





星屑

2010-12-14 01:17:35 | 日記


★ 子供のときには、もっぱら不快、不安、恐れとして、身体と感情でじかに反応するしかなかった事態は、大人になることで少しずつ理解され、克服され、懐柔されていく。なぜかわからないまま、不気味だったり、恐ろしかったりした対象は(それは対象でさえなく、自分の心身そのものと区別がつかなかったのだが)、手なずけられ、退けられ、解釈され、いつのまにか解消される。そのような対象は、しばしば死の脅威に、あるいは性的な次元に結びつき、また大人たちの生活の気苦労やタブーや、歴史的、社会的な事件からやってくる直接、間接のさまざまな不安だったりする。

<宇野邦一『他者論序説』(書肆山田2000)>


上記引用で、ぼくが好きなのは、《(それは対象でさえなく、自分の心身そのものと区別がつかなかったのだが)》というカッコ内の書き込みである。

こういう文章があるから、ぼくは宇野邦一を信頼することができる。
あるいは、このカッコ内の文は、上記の記述を、“正確に”しているといってもよい。
ぼくはある年齢を超えてから、このカッコ内に書かれているような、自分が幼児だった頃の<瞬間>をふっと想起する(感じる)ことがある。
それは、淡く、すぐ消えてしまうが、大人になってからはけっして体験し得ない、言葉にしえない幸福のような“感じ”である。




★ まさに貴女こそは、私の人生も、私の思考も極端なポジションのあいだで動いている、ということが決して見えていないわけではないでしょう。このような思考が主張する広がり、あるいは、とてもいっしょにすることのできない事物や思考を並べて動かすという自由、それは、危険を通じてのみ表情を獲得するものなのです。この危険は私の友人たちから見ても、あの<危険な>関係のかたちでのみ目に見えるものなのです。

<ヴァルター・ベンヤミン:アドルノ夫人グレーテルへの手紙―三島憲一『ベンヤミン』(講談社学術文庫2010)より引用>






* 画像は、Annie Leibovitzによる