Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

精神のやまい+ランボーの手紙

2010-12-14 12:52:26 | 日記


★ 精神的に「病む」ことを問うにあたって「病む」ことを語る学問の特質を問うのは当然であろう。もしも「病んで」ゆくのが精神病者だけではなく、精神病理学そのものであったなら、いな、われわれ自身すらも「病みつつ」あるのなら、われわれは根底からすべてを問いなおさなければならない。

★ われわれは「狂気」という言葉を安易に使えない時代に突入してしまっている。(略)神ならぬわれわれにとっては、ただ<力としての歴史>と<自然生命直接的事態>とが織り成す謎めいた緊張感のみが唯一最奥の問題になりうるだろう。

<渡辺哲夫『20世紀精神病理学史』(ちくま学芸文庫2005)>




★ あなたは結局のところ、御自分の原則のなかに、主観的な詩(ポエジー)しか見ておられないのです。あなたが教職に就いて食べていこうという考えを捨てきれないことが――暴言、お許しください!――そのことを証明しています。しかしあなたはとどのつまり自己満足した人間、つまりなにもしようとは思わなかったので、なにもしはしなかった人間になってしまわれることでしょう。あなたの主観的な詩がつねに変わらずひどく味気ないだろうということは、申し上げるまでもないことですが。

★いつかきっと(略)あなたの原則のうちにぼくは客観的な詩を見ることでしょう。(略)――ぼくは将来労働者になるでしょう。狂ったような憤怒がぼくをパリの戦闘へと急き立てるいまこのときに、ぼくを引き留めるのはこの考えです。――でもパリでは、ぼくがいまこうして手紙を書いているあいだにも、多くの労働者が死につつあるのですが!いますぐ労働するなんて、いやですよ、絶対に。ぼくはストライキ決行中なのですから。

★ 現在、ぼくは放蕩無頼の限りを尽くしています。なぜとおっしゃるのですか?ぼくは詩人になりたいのです。そして、自分を「見者(ヴォワイヤン)」にしようと努めているのです。(略)問題なのは、あらゆる感覚を壊乱させることを通して未知なるものへ至ることです。(略)私は考える、というのは誤った言い方です。ひとが私を考える、と言うべきでしょう。――言葉遊びの点は許してください。

★ 私とは一つの他者なのです。木片がヴァイオリンであることになっても仕方ありません。それで、無自覚な人々、自分がまったく無知なことに関して屁理屈をこねる人々に向かっては、鼻先であしらっておきましょう!

<アルチュール・ランボー:教師イザンバールへの手紙(青土社『ランボー全詩集』1994)>






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