Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“対話”について

2010-12-02 09:53:16 | 日記


★ 同様に、「話す」ということにも、「命がけの飛躍」があります。バフチンは、「言語というものは他者に語られるものだ」ということを非常に強調するのですが、それは普通のコミュニケーションのモデルでそういうことを考えているように見えるわけですね。しかし、そこには他者はいないのです。「話す=聞く」主体、つまり「自分が話すのを聞く」すなわち「意識」から出発しているからです。バフチンが「他人に語られる」というときに、それは「命がけの飛躍」というか、「暗黒の中の飛躍」というか、そういうものを孕むということなんですね。それを抜いてしまうと、「皆さん、対話しましょう」とか、何かよく新聞の投書に書いてあるような話になってしまいますが、そうではありません。普通の意味での対話が成立しないようなところでの発話、あるいはコミュニケーションのリアリティを、むしろ「対話」と呼んでいると思うんです。

★ ドストエフスキーの世界には、根本的にそういう認識があります。先ほど、ドストエフスキーは「私と私が交わる」という公理系から出発したと話しましたが、実はドストエフスキーの世界は、表面的には、私と私がまったく交わらないような世界のように見えるはずです。普通の意味では、ドストエフスキーの人物たちは“対話”していないからです。いわゆる近代小説では、人物たちは“対話”します。しかし、それは、「作者」という主体に従属しているのであり、したがって作者のモノローグなのです。ドストエフスキーの世界では、ドストエフスキーという作者が支配していません。

<柄谷行人“ドストエフスキーの幾何学”―『言葉と悲劇』(講談社学術文庫1993)>