Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

境界線に立って(他者-わたし-あなた)

2010-12-29 15:51:31 | 日記



★アレントにとって公共性は、国家と個人を決して一つの人格・理性として統一しないことを前提としている。ヘーゲル的な統合と全体の観念は、どんな歴史上のテロルも、理性の策略として容認してしまうという点で、それ自体テロルを含んでいる。公共性について語るときアレントは、全体も統合も決して許さず、中心をもたず、対等な個人たちがむき合い、たえず差異を闘わせる場をいつも想定していた。それはあらかじめ共同体にいかなる統一の観念をもち込むこともなく、むしろ分裂を肯定する思想なのだ。



★ そして自己と他者の境界線は、決定的に固定されてしまうわけではない。境界線は振動しつづけ、他者のなかには自己が、自己のなかには他者が、いつも挿入され、反映され、しかもそのことはしばしば知覚されず、意識もされない。

★ 私は幾重にも、他者に取り囲まれている。すでに私の精神にとっては私の身体は他者であり、私を生みだした家族、社会、民族、自然が他者である。あるいは私にとって、しばしば私自身が他者であり、こうして書いている私の手と私の言葉が他者である。

★ ヘーゲルはかぎりなく理性的な自己を拡張し、何重にも否定を通じて、絶対精神の方にのぼりつめていくが、私たちはかぎりなく自己を縮小し、多数の他者のあいだに分散させるようにして思考することができる。

★ それには多かれ少なかれ、分裂(症)の危険がともなうにしても。しかし分裂(症)によって、かつての全体性とは異なる、まったく別のタイプのめざましい構築や連結が生みだされた例も、私たちは数多く知っている。そこには、統一に抵抗し、分裂を肯定する別の理性と別の共同体の兆しも含まれていたのだ。

<宇野邦一『他者論序説』(書肆山田2000)>