先日ぼくもこのブログで取り上げた“東京都青少年保護育成条例の改正問題”について、北海道の国語教師堀裕嗣君が<最初から破綻している>というブログを書いている。
けっこういろんな“論点”があり、ぼくが共感できる部分とそうでない部分があったし、現役の教師である立場上、表現を慎重にせざるを得ない部分も感じられた。
しかしそのタイトル<最初から破綻している>は、よい。
彼のブログから2箇所引用させていただく;
☆しかし、「太陽の季節」になぜ性描写が必要だったのかというある種の〈芸術性〉の問題を考えても、「太陽の季節」がなぜあれほどの爆発的なヒットを飛ばし、石原裕次郎をあれほどまでのスターダムに押し上げたのかというある種の〈大衆性〉の問題を考えても、どちらも現在に移行すれば漫画問題と構造的に相似形を為すのはずだと考えるのは穿っているだろうか。
☆ナボコフの「ロリータ」が、川端康成の「眠れる美女」が、或いはリュック・ベッソンの「レオン」が、ある種の少女趣味的性描写を指摘され、規制を受けるとしたら、知事・副知事をはじめ、都議たちは反対しないのだろうか。漫画の性描写はその延長線上にありはしないか。
(以上堀裕嗣ブログ引用)
しかし、『太陽の季節』をぼくは高校生か予備校通い時代に(すなわち1960年代中頃に)読んだが、その時、すでに“古臭い”と思った。
当時ぼくが“ある種の芸術性”(当時ぼくにそういうボキャブラリーはなかったが)を感じたのは、大江健三郎の「奇妙な仕事」や「死者の奢り」であった。
つまり堀裕嗣の言いたいことはわかるが、漫画であろうとブンガクであろうと“性描写”自体の問題があると思うのである。
(「奇妙な仕事」や「死者の奢り」には、直接的に性描写はなかったと思うが)
大江健三郎という作家にとっても、直接の“性描写”はあまり成功していず(“性交”していず;笑)、ぼくはむしろ、防腐剤プールに浮かぶ死体や処分される野犬の吠え声に、エロティシズムを喚起されたものだった。
「ロリータ」、「眠れる美女」、「レオン」の組み合わせは、なかなか魅力的である(笑)<追記>
さすが、昔、<神に通じる少女>というブログを書いた堀裕嗣の、面目躍如である。
しかし、石原慎太郎都知事は、ぼくwarmgunより、“古い”。
ここでも「ロリータ」を“理解した”のは大江健三郎であった。
ぼくは堀君が、現役の教師として、アクチュアルな<少女>を知っていることに期待するが、堀君の“J-POP”的エロティシズムに対する過剰な感性には、疑問を禁じえない。
☆ こうした「おたく」、そして「オタク」という新たな世代の中から、宮台真司・大塚英志・岡田斗司夫・東弘紀……といった明晰な頭脳が出現したこともまた紛れもない事実だ。いま、文学の代替物として、「新世紀エヴァンゲリオン」や「デス・ノート」が文芸誌上で真正面から取り上げられ、分析・検討されていることも紛れもない事実である。漫画やアニメというメディアが、いわば「新しい芸術」として時代を席巻しているのは確かなのである。そして芸術と性描写とが切り離せないものであるという言説に石原慎太郎は与し、いまもなおまず間違いなく賛同するはずなのではないか……。(堀裕嗣ブログ)
そうだろうか?
“宮台真司・大塚英志・岡田斗司夫・東弘紀”を《優秀な頭脳》と断定することは、安易ではないだろうか。
そして石原慎太郎に対する評価は、完全にまちがっているのではないか。
石原が、《芸術と性描写とが切り離せないものである》と理解できるなら、こんな愚劣で過去の遺物の復活でしかない条例が、この西暦2010年において大手を振るうはずはない。
<最初から破綻している>ひとは、そうとういる。
<追記>
ぼくとしては、このリストに「都会のアリス」を付け加えたい。
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