Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

友よ、地の果てでまた会おう

2010-12-06 20:20:21 | 日記


■ 世界は危機に遭遇している。私たちの総てが破滅に向かっている。地球が壊滅しかかっている。この危機や破壊や壊滅の中に私たち、人間、共に生きてきた愛する動物、植物、この風、この空、土、水、光が永久に閉ざされ続けるのか。何かが大きく間違っていたのだ。近代と共に蔓延した科学盲信、貨幣盲信、いや近代そのものの盲信がこの大きな錯誤を導いたのだ。
私たちはここに霊地熊野から真の人間主義を提唱する。人間は裸で母の体内から生まれた。純正の空気と水と、母の乳で育てられた。今一度戻ろう、母の元へ。生まれたままの無垢な姿で。人間は自由であり、平等であり、愛の器である。霊地熊野は真の人間を生み、育て、慈しみを与えてくれる所である。熊野の光。熊野の水。熊野の風。岩に耳よせ声を聞こう。たぶの木のそよぎの語る往古の物語を聞こう。
そこに熊野大学が誕生する。<“熊野大学”プロジェクトの開校式に寄せて>



■ 地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴き続ける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。<岬>

■ この女は妹だ、確かにそうだと思った。女と彼の心臓が、どきどき鳴っているのがわかった。愛しい、愛しい、と言っていた。獣のように尻をふりたて、なおかつ愛しいと思う自分を、どうすればよいのか、自分のどきどき鳴る心臓を手にとりだして、女の心臓の中にのめり込ませたい。くっつけ、こすりあわせたいと思った。女は声をあげた。汗が吹き出ていた。おまえの兄だ、あの男、いまはじめて言うあの父親の、おれたちはまぎれもない子供だ。性器が心臓ならば一番よかった。いや、彼は、胸をかき裂き、五体をかけめぐるあの男の血を、眼を閉じ、身をゆすり声をあげる妹に、みせてやりたいと思った。今日から、おれの身体は獣のにおいがする。安雄のように、わきがのにおいがする。酔漢なのだろうか、誰かが遠くで、どなり叫んでいるのが彼にきこえた。苦しくてたまらないように、眼を閉じたまま、女は、声をあげた。女のまぶたに、涙のように、汗の玉がくっついていた。いま、あの男の血があふれる、と彼は思った。<岬>

■ 空はまだ明けきってはいなかった。通りに面した倉庫の横に枝を大きく広げた丈高い夏ふようの木があった。花はまだ咲いていなかった。毎年夏近くに、その木には白い花が咲き、昼でも夜でもその周囲にくると白の色とにおいにひとを染めた。その木の横に止めたダンプカーに、秋幸は一人、倉庫の中から、人夫たちが来ても手をわずらわせることのないよう道具を積み込んだ。<枯木灘>

■ 光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、土に当たっていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。いつも、日が当たり、土方装束を身にまとい、地下足袋に足をつっ込んで働く秋幸の見るもの、耳にするものが、秋幸を洗った。今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の川原を伝い、現場に上がってきた。秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。<枯木灘>

■ 血が流れていた。だが、黒い水と血は、夜目には判別がつかなかった。秋幸の眼の前に、水かさが増した川の水に浮遊した花が見えた。
徹が秋幸の体を後から羽交じめにした。一瞬の事だった。「こいつが、こいつが」と秋幸は言い、立ちあがった。人が走り寄ってくるのがみえた。薄暗い川原だった。風は吹かなかった。秀雄は波打ち際に頭をむけ、顔を両手でおおって、体をびくびくとふるわせていた。
竹原の一族も、フサもその川原にいた。その男浜村龍造もいた。息が荒かった。秋幸の体が空になっていた。殺してやった、と秋幸は思った。
「わあ、大変や」と言う声がし、徹が秋幸の体を突き、「逃げやんか」とどなった。足がそぎ落ちている気がして動けなかった。「おまえの子供を、石で打ち倒した」薄闇の中で秋幸はそう言った。
秀雄の血かそれとも川の水なのか判別がつかないものが、石と石の隙間でひたひたと波打っていた。それは黒く、海まで続いていた。はるか海は有馬をも、この土地をも、枯木灘をもおおっていた。<枯木灘>

■ 風が吹いた。山が一斉に鳴った。
川の向こうの山が暗かった。日はその山の向こう側を照らしているはずだった。日は海の側にあった。山を越えた向こう側に有馬があり、川を下りたところにその土地があった。蝉が鳴いていた。悲嘆の声だった。しばらくその声に耳を澄ました。自分の体が鳴っていた。人が見ると秋幸を木と見まがいかねなかった。蝉の声が自分の体の中で鳴り、秋幸は自分が木だと思った。木は日を受け、内実だけが露出する。梢の葉が揺れ、日にろうのように溶けた緑をばらまく。いきれが汗のにおいのようにある。<枯木灘>

■ 浜村孫一終焉の地の石碑を建てたその男は、秋幸がさと子との秘密を言うと、「かまん、かまん」と言った。「アホができてもかまん」秀雄が秋幸に殺されたと知って、男はどう言うだろう。秋幸は男が怒り狂い、秋幸を産ませ、さと子を孕ませ、秀雄を産ませた自分の性器を断ち切る姿を想像した。有馬の地に建てた遠つ祖浜村孫一の石碑を打ち壊す。息が苦しかった。蝉が耳をつんざくように鳴った。梢の葉一枚一枚が白い葉裏を見せて震えた。
秋幸は大地にひれふし、許しを乞うてもよかった。
日の当たるところに出たかった。日を受け、日に染まり、秋幸は溶ける。樹木になり、石になり、空になる。秋幸は立ったまま草の葉のように震えた。<枯木灘>

■ 朝の光が濃い影をつくっていた。影の先がいましがた降り立ったばかりの駅を囲う鉄柵にかかっていた。体と共に影が微かに動くのを見て、胸をつかれたように顔を上げた。鉄柵の脇に緑の葉を繁らせ白いつぼみをつけた木があった。その木は、夏の初めから盛りにかけて白い花を咲かせあたり一帯を甘い香に染める夏ふようだった。満で29歳になった6尺はゆうに超すこの男は、あわてて眼をそらした。観光バスや定期バスが列を連ねている広場を秋幸は渡り始めた。<地の果て至上の時>



★ (新宮高校でいじめられる健次)
その健次を救ったのは、勝浦から列車で通学してくる日比紀一郎という同級生であった。日比は腕力には自信があったし、大きな病院の息子で勉強もできる。詩を書く文学少年でもあった。よってたかって健次をなぶるワルどもを蹴散らかし、以来、2年でクラスが離ればなれになるまで、健次とは親しく過ごすようになった。
ふたりならんで道を歩いているとき、隣を歩いているはずの健次の姿が見えなくなったので、どうしたのだろうと訝っていると、
「きれい」
と、背中のほうで声がする。
ふり返ってみると、健次が足元に咲いている小さな花を見ていた。
「なにしはんの」
「花、見やる」
「健次、おまえこの花がきれいと思うんやったら、どんなふうにきれいかちゃんと言葉で表現せえや」
日比はそう言ってみたが、わざわざ立ち止まってじっと名もない花に見いる姿そのものが、どれほど花に魅了されているかを物語っていた。
<高山文彦『エレクトラ 中上健次の生涯』>



■ 「黄金比の朝」は1年半前に書いた。
 吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。ランボーの言う混乱の振幅を広げ、せめて私は、他者の中から、すっくと屹立する自分をさがす。だが死んだ者、生きている者に、声は、届くだろうか?読んで下さる方に、声は、届くだろうか?<『岬』後記 1975年12月>



■ その被慈利(ひじり)にしてみれば熊野の山の中を茂みをかきわけ、日に当たって透き通り燃え上がる炎のように輝く葉を持った潅木の梢を払いながら先へ行くのはことさら大仰な事ではなかった。そうやってこれまでも先へ先へと歩いて来たのだった。山の上から弥陀(みだ)がのぞいていれば結局はむしった草の下の土の中の虫がうごめいているように同じところをぐるぐると八の字になったり六の字になったり廻っているだけの事かも知れぬが、それでもいっこうに構わない。歩く事が俺に似合っている。被慈利はそううそぶきながら、先へ先へ歩いてきたのだった。先へ先へと歩いていて峠を越えるとそこが思いがけず人里だった事もあったし、長く山中にいたから火の通ったものを食いたい、温もりのある女を抱きたいといつのまにか竹林をさがしている事もあった。竹林のあるところ、必ず人が住んでいる。いつごろからか、それが骨身に沁みて分かった。竹の葉を風が渡り鳴らす音は被慈利には自分の喉の音、毛穴という毛穴から立ち上がる命の音に聴こえた。< “不死”― 『熊野集』>



■ <吉野>に入ったのは夜だった。吉野の山は、闇の中に浮いてあった。吉野の宿をさがして、車を走らせる。道路わきの闇に、丈高い草が密生している。その丈高い草がセイタカアワダチソウなる、根に他の植物を枯らす毒を持つ草だと気づいたのは、吉野の町中をウロウロと車を走らせてしばらく過ってからだった。車のライトを向けると、黄色の、今を盛りとつけた花は、あわあわと影を作ってゆれる。私は車から降りる。その花粉アレルギーをひき起こすという花に鼻をつけ、においをかぎ、花を手でもみしだく。物語の土地<吉野>でその草の花を手にしている。
■ 田辺から枯木灘まで来たのに、レストランはあいていず、仕方なしに国道をさらに走る。その江住で絶壁が海にせり出し海が光でふくれあがっている光景の道端にその草を見つけたのは衝撃だった。セイタカアワダチソウの一群が枯木灘のそこに黄色い花を日に照らして咲いていた。
枯木灘。
ボッと体に火がつく気がした。いや、私の体のどこかにもある母恋が、夜、妙に寒いと思っていた背中のあたりを熱くさせている。高血圧と心臓病で寝たり起きたりしている母でなく、小児ゼンソク気味の幼い私が、夜中、寒い蒲団のなかで眼をさますと、今外から帰ってきたばかりだという冷たい体の母がいる。さらにすりよると、母は化粧のにおいがした。母に体をすりよせて暖まってくると、私は息が出来なくなるほど、喉が苦しくなる。
枯木灘のセイタカアワダチソウは、その息苦しさを想い起こさせる。私は、この旅の出発点でもある新宮へ向かった。とりつくろうものが何もないゴロゴロ石の海を見ておこう。
セイタカアワダチソウの根が持つという毒に私がやられてしまった、と思った。<“吉野”― 『紀州』>



■ ちょうどたまたま新しく居を定めたところが、男が猟銃で一家七人殺傷し自殺した事件のあった熊野市二木島から二つ手前の村新鹿(あたしか)だった事もあり、今年はひととおりでなく桜が眼についた。
■ 路地では父親、母親の事を、男の親、女の親と呼ぶならわしがあるのだった。もちろん、あの子の男の親は、とは、決して市民社会で呼ぶようなあの子の父親というものと同じものではない(略)市民社会で呼ばれるような父親は路地にはないと言ってよく、男の親女の親とは、むしろ生物としての親という言い方に近い。
■ ・・・・・・いつふり出したのか雨の音で眼ざめる。ななめ向かいの姉の家に宿酔を晴らすために熱い茶粥でも食べさせろと行こうかと思案していて、ふと雨の音が苦しくなる。死ぬしか決着つかないと思う。いや、死のうか、と考える。
何度も何度も路地の雨は小説に書いてきた。玄関の戸を開けると、小説の世界がひらける。私がそこで一人、自分で手首を斬り喉首を斬り血まみれになって死んでいても誰も疑わない。小説の中の登場人物がそうなるように路地という幻の中で人は納得する。だが子供を道づれにする夢のような考えを持った事など一度もなかった。
■ すっかり日が落ちたが空のかすかな白みで見える山がざわめき轟音を立てるのは、その男が、山々を枯らす勢いで泣いているからだった。<“桜川”―「熊野集」>



■ 紀州の海はきまって三月に入るときらきらと輝き、それが一面に雪をふりまいたように見えた。フサはその三月の海をどの季節の海よりも好きだった。三月は特別な月だった。海からの道を入ってフサの家からすぐそばにある寺の梅が咲ききり、温かい日を受けて桜がいまにも破けそうに蕾をふくらませる頃、フサがいつも使い走りする度に眼にする石垣の脇には、水仙の花が咲いている。今年もそうだった。その水仙の花を見つけた時、近所の酒屋の内儀から「はよ、走って行って来てくれ」と言いつけられた小間使いを忘れて、走るのを止め、肩で息をしながらしばらくみつめていた。その白い花弁の清楚な花が日にあたっているのをみつめていると、胸の辺りが締めつけられて切なくなり、涙さえ出た。
その花が咲く度に春が来る。フサが生れた三月七日という日が来る。フサはその日がまもなく来て十五になると思い、紀伊半島の、一等海にせりだした潮ノ岬の隣の古座というところに根付いた水仙の一群が、日を受けて花を付けているのを見て、人の都合や思いの届かないところに、人も花も石垣も包み込むような大きなものがあるのかもしれない、と考えたのだった。<『鳳仙花』>



■ 話を変えた。歌をうたってもらった。所謂(いわゆる)、串本節である。だが、ここでは古座節と言ったほうがよい。

わたしゃ若いときゃ つがまで通うた
つがのどめきで
夜があけた

ついてござれよ
この提灯に
決して苦労は
させはせぬ

“つがのどめき”とは、古座から新宮にもどった海岸にある。潮が満ちてくると、ドドドドッとどめく。どめくとはどよめく、鳴りひびくの意味である。歌は恋の歌であり、恋心がどめきに満ちる潮の音ほど鳴りひびく。歌の文句は、男が歌うより女が歌うほうがよい。<“古座”―『紀州』>



■ その腐肉のにおい立つ共同作業場にいたM青年に会った時も、その彼女と同じ物があるのを感じた。青年は作業場の一等奥、物陰になり外から見えぬ場所であぐらをかき、切り取ったまだ肉のついた馬の尻尾から、毛を抜いていた。自分の肩ほどの長さの馬の尻尾である。腐肉のにおいの中で青年は、台に一台小さなラジオを置き、手ばやく毛を抜きとりそろえている。肉のついた尻尾はもちろん塩づけにしてはいるが、毛に何匹ものアブがたかってもいる。衝撃的だった。
■ その衝撃は、言葉をかえてみれば、畏怖のようなものに近い。霊異という言葉の中心にある、固い核に出くわした、とも、聖と賤の還流するこの日本的自然の、根っこに出喰わしたとも、言葉を並べ得る。だがそれは衝撃の意味を充分に伝えない。私は小説家である。事物をみてもほとんど小説に直結する装置をそなえた人間であるが、一瞬にして、語られる物語、演じられる劇的な劇そのものを見、そして物語や、劇からふきこぼれてしまう物があるのを見た。それが正しい。つまり、小説と小説家の関係である。
■ いや、そこで抜いた馬の尻尾の毛が、白いものであるなら、バイオリンの弦になる。バイオリンの弦は商品・物であると同時に、音楽をつくる。音の本質、音の実体、それがこの臭気である。塩洗いしてつやのないその手ざわりである。音はみにくい。音楽は臭気を体に吸い、ついた脂や塩のためにべたべたする毛に触る手の苦痛をふまえてある。弦は、だが快楽を味わう女のように震え、快楽そのもののような音をたてる。実際、洗い、脂を抜き、漂白した馬の尻尾の毛を張って耳元で指をはじくと、ヒュンヒュンと音をたてる。
■ その夜、山谷君がよく行くというスナックに飲みに行った。二台の車に分乗し、田辺に出た。朝来の大谷と田辺、そこが赤坂であっても六本木であってもいっこうにおどろかないシャレたスナックで、山谷君の昔からの友人であり仕事仲間であるK君の、エレクトーン伴奏で歌う山谷君を見て、共同作業場で毛をすいていたM青年も、仕事を終えると風呂を浴び、体にオーデコロンをふりかけ、服を他所行に取り換え、外に出るのだろうと思った。女が肌に化粧をほどこすようにである。
■ 大谷の後ろは熊野の山々だった。霊異は、その谷の中にある。みにくい物をえもいわれぬ音の楽器に変える不思議さは、その谷の中にある。「秘すれば花」とはこの日本的自然の中心をうがつ美意識であり、美の方法論であるが、花に幽玄があるのではない、と、山谷君の歌をききながら思った。秘する、それに不思議はこもる。
案の定、翌日は雨だった。大谷を出て、救馬渓観音に行った。そこから、大谷は幾つもの山のかげにかくれて見えない。<“朝来(あっそ)”―『紀州』>



■ その子にハヤシたてられたその子の人なつっこさが私を慰める。車を朝熊の山上に走らせながら私は、一体、何の為に妻子をおいて旅をしているのだろうか、と思う。今、私に、生活はない。あるのは言葉だけだ。コトノハだけだ。言葉によって地霊と話し、言葉によって頬すりよせ地霊と交感し、私は傷ついた地霊を慰藉しようとも思う。私は今人麿でもありたいし、小説という本来生きている者と死んだ者の魂鎮め(たましずめ)の一様式を、現代作家として十全に体現する者であらんと思うが、この地では逆に、言葉を持つ事がおごりに映る。
■ 雨が激しくなる。潅木の緑が濡れている。私は雨と渓流の音をききながら、立ちつくし、また思いついて向こう側へ渡る方法をさがして歩きまわる。草は草である。そう思い、草の本質は、物ではなく、草という名づけられた言葉ではないか、と思う。言葉がここに在る。言葉が雨という言葉を受けて濡れ、私の眼に緑のエロスとしか言いようのない暗い輝きを分泌していると見える。言葉を統治するとは「天皇」という、神人の働きであるなら、草を草と名づけるまま呼び書き記すことは、「天皇」による統括(シンタクス)、統治の下にある事でもある。では「天皇」のシンタクスを離れて、草とは何なのだろう。<“伊勢”―『紀州』>



■ 日本を統ぐ(すめらぐ)には空にある日ひとつあればよいが、この闇の国に統ぐ物は何もない。事物が氾濫する。人は事物と等価である。そして魂を持つ。何人もの人に会い、私は物である人間がなぜ魂を持ってしまうのか、そのことが不思議に思えたのだった。魂とは人のかかる病であるが、人は天地創造の昔からこの病にかかりつづけている。<“闇の国家”―『紀州』終章>



★ “語りえない”
1992年、信濃町の病院を訪れたわたしにむかって、中上健次は秋幸のその後の物語を書く構想をはっきりと語り、台湾への取材旅行を計画しているという。わたしはもう彼にはいくばくもの時間が残されていないことを直感する。いったい彼が現在進行形のこと以外を語ったためしがあっただろうか。過去や、あるいは未来に言及したことがあっただろうか。秋幸はもう一度路地に帰ってくるのだ、と中上は宣言する。だがわたしは、この断言ゆえにそれがもはやありえないことを確信する。
★ “服喪2”
ある作家の書き遺したものを読むことは、彼が眺めた風景を眺めたり、彼が聴いた音楽をもう一度聴いてみることと、どのように違う行為なのだろうか。ソウルの市場の喧騒。熊野の夜の闇。羽田飛行場。アルバート・アイラー。サムルノリ。死者について語ることが必要な時というものがある。だが、それはいつまでも続かない。あるとき、もはや死者に向き合ってではなく、死者の傍らに並びながら語ることが求められることになるのだ。
★ “補遺 声と文様”
こうした文体の実験の背後に、声の人であった中上を想定することは可能であるし、また正当でもある。だが同時にその背後に、密林の蔦のように絡まりあうエクリチュールの文様を思い浮かべることは、さらに正当なことではないかとわたしは考えている。改行どころか、句点も読点もなく、構文の秩序も、動作の主体の論理的一致も置去りにしたまま、どこまでも終わることなく書き続けられる文。おそらくそれは通常の400字詰め原稿用紙からはけっして生れることのなかった、異常な文のあり方であろう。中上健次があるときみずから選択した集計用紙という、けっしてこれまで文学的実践には用いられることのなかった用紙が、それを可能にした。文学が文様でもあり同時に声でもあること。書くことが織りこむことであると同時に、織り解いてゆくことでもあること。中上健次は一見矛盾するかのように見えるこうした作業を、生涯にわたって実践し続けた。「何の変哲もない」集計用紙の束を通して世界の文様を精密に写しとったばかりではない。みずからが謎めいた、巨大な文様であることを、身をもって生きたのである。
★“補遺 一番はじめの出来事”
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。
<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』>



■ 朝早く女が戸口に立ったまま日の光をあびて振り返って、空を駆けて来た神が畑の中ほどにある欅(けやき)の木に降り立ったと言った。朝の寒気と隈取り濃く眩しい日の光のせいで女の張りつめた頬や目元はこころもち紅く、由明(よしあき)が審(いぶ)かしげに見ているのを察したように笑を浮かべ、手足が痛んだから眠れず起きていたのだと言った。女は由明が黙ったままみつめるのに眼を伏せて戸口から身を離し、土間に立っていたので体の芯から冷え込んでしまったと由明のかたわらにもぐり込み、冷えた衣服の体を圧しつけてほら、と手を宙にかざしてみせた。どこに傷があるわけでもないが、筋がひきつれるような痛みが寝入りかかると起こり出して明け方まで続いたと女は由明に手を触らせた。<“重力の都”>



■ お父さんの名前は、健次という。おじいちゃんか、おばあちゃんが、つけてくれた。第2次世界大戦、つまりアメリカやイギリスという民主主義の国相手に、日本が引き起こした無謀な戦争、その戦争の敗北の後に、お父さんは生まれた。
だからなのだろう。健次の健は健康という意味、次は2番目という意味。二番目の健康な息子である。健康に育ってほしい。そんな両親の意味がこもった名前だ。戦争に苦しみ、次々と無意味な死を迎えた人々を見たら、天に祈るような気持ちで子供を名づけるのは、よく分かる。
菜穂という名はお父さんが名づけた。温暖な日本は瑞穂(みずほ)の国と言われる。みずみずしく稲が実る国という意味。その稲の実る稲穂という意味。菜穂の菜とは野菜の菜。稲穂と野菜。私たちが日常に食するものだが、二つ並べると豊かなイメージが浮かび上がる。
が、この地上に、今、何万、何十万、何百万の人々が飢えているのを知っているだろうか。
お父さんは、お前の名前を菜穂と名づけるとき、この子と、この子の生きる世界に、稲穂と野菜があまねく行き渡りますように、天にいのって、名づけた。
お父さんの祈りは天に通じているだろうか?
菜穂は飢えてはいない。ではどうして、他から飢えた子供の泣き声が聞こえるのか。菜穂はその矛盾を考えてほしい。問題があるなら、それを解いてほしい。もし不正義があり、そのためだというのなら不正義と戦ってほしい。
しかし戦いは、暴力を振うことだろうか?違う。人間の存在の尊厳を示すことだ。そのためには、英知が要る。豊かな感受性が要る。菜穂が、この学校で学ぼうとしていたことは、不正義と戦う本当の武器、つまり人間の存在の尊厳を示す方法だったのだ。頑張れ。心から愛を込めて、声援を送る。
<中上健次が次女の菜穂に宛てた手紙>





夏目漱石100年

2010-12-06 11:27:12 | 日記


小森陽一『漱石論』(岩波書店2010)を読みながら、<夏目漱石>という固有名をもつ人間について、あらためて考えてみることも、良いかもしれない。

“漱石”は、日露戦争二年目の1905年1月の『ホトゝギス』に『吾輩は猫である』を発表して小説家になった。
そしてレーニンが『帝国主義論』を発表した年、1916年12月9日に『明暗』を書き終えないまま、去った。

1903年1月ロンドン留学から帰国した漱石は、4月から第一高等学校の教授と東京帝国大学文科大学講師を兼任、1907年4月“朝日新聞”入社。

その「入社の辞」(東京朝日新聞1907年5月3日付)にある;

★ 新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなからう。月俸を上げてもらふ必要はなからう。(略)新聞が商売である如く大学も商売である。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。


また当時の漱石の認識は、『草枕』にみられる;

★ 文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によつて此個性を踏み付け様とする。


現在このような“明治人”漱石を読むぼくにいちばん迫るのは、漱石の正直さである。

すなわち、明治から平成への“進歩”は、嘘つきの群れを生み出しただけに思える。