Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“アメリカ人”とは誰か?;リーボヴィッツ-ソンタグ-ゴダール

2010-12-12 16:33:45 | 日記


下記ブログでは、“アメリカのマルクス主義者”について書いた。

昨夜のテレビでは、“アメリカの女性カメラマン”アニー・リーボヴィッツのドキュメントを見た。
そして、彼女が死に直面するスーザン・ソンタグを記録した人であることを思い出した。

ぼくは昔のブログで、<ハロー・スーザン>というのを書いたが、ソンタグの著書は『反解釈』(ちくま学芸文庫1996)しか持っていない。
60年代、ぼくが大学生の頃、“スーザン”は、新しい人だったのに。

また最近読了した大江健三郎『憂い顔の童子』には、“ローズさん”という魅力的なキャラクターが登場する。
彼女は、ノースロップ・フライ(これまたぼくが名のみ知る人だが)の弟子であり、ドン・キホーテ研究家であるとともに、大江=古義人研究家である。

大江はこの“ローズさん”をとても“アメリカ人らしく”表出しているが、彼女は“アイルランド系”である。
また、アニーもスーザンも“ユダヤ系”である。

また、映画「ゴッド・ファーザー」で描かれた一族は“イタリア系”であり、「ウエストサイド物語」で描かれたのは“プエルトリコ系”であり、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」で描かれたのは“チャイニーズ・マフィア”であった(笑)

ならば、“アメリカ人”とは誰か?

現在、日本の(特に)若者たちにとっては、“外国と外国人”というのは、<アメリカ―アメリカ人>のことである。

なにしろ彼らは、“アメリカン・カルチャー”に骨の髄まで浸されて育った(ああテレビ!)
“大人たち(老人たち)”にとって<アメリカ>は、軍事的・産業的“同盟国”なのであった(笑)

なのに、<アメリカ人>について、さっぱり知っているとは思えない(ぼく自身も)

なにしろ、“ネイティブ・アメリカン”とは、現在のアメリカ人の主流でない人々であり、もちろん、現在の“アメリカ人”は、アフリカや中南米やアジアやヨーロッパからの移民であった。

もちろん“ぼくら”はそのことを、知識として知っていても、さっぱりそのことを実感していない。
もし“アメリカ人”を<友人>とするならば、そのような“無知”は、まずいのではないだろうか。

さらに、当然、スーザン・ソンタグは、“アメリカ映画”のみを見ていなかった。

『反解釈』を本の山から取り出して目次を見たら、ゴダール(フランス人だ!)の初期傑作『女と男のいる舗道(彼女の人生を生きる)』(ぼくの一番好きな映画の1本)の評があった;

★ゴダールのテクニックの本質は、この映画劈頭のクレジット・シークエンスと第1のエピソードにそのすべてが現れている。クレジットは、非常に暗くてほとんどシルエットになっているナナの左のプロフィルの上に現れる。(映画のタイトルは『女と男のいる舗道・12のエピソード』である。)クレジットが続いているあいだ、彼女の正面が、次に右顔が、依然として黒々とした影で、映される。ときおりナナはまばたきしたり、わずかに顔を上げたり(長い時間じっとしているのが不快だとでもいうように)、また唇をなめたりする。ナナはポーズをとっている。彼女は見られているのだ。


★ 『女と男のいる舗道』全体がひとつのテクストと見なせるかもしれない。それは明晰さのテクスト、明晰さの探究である。つまり、まじめさ(シリアスネス)についての映画なのだ。

★ ゴダールはこの映画のために、自由と責任についての彼のモットーをモンテーニュから借用する――「あなた自身を他人にあたえなさい。あなた自身をあなた自身にあたえなさい」。売春婦の生涯は、むろんのこと、自分を他人にあたえる行為の最もラディカルな隠喩(メタファ)である。だが、ナナが自分を自分にとっておく姿を、ゴダールはどのように示したのかを訊ねるとしたら、答えはこうだ――ゴダールはそれを示していない。示すというよりは、詳細に究明しているのだ。われわれはナナの動機について遠回しにしか、推論でしか、知らない。この映画は心理学をまったく避けている。感情を、内面の苦痛を探ることがまるでない。

★ 自由は内面の心理的な何かではない――もっと物理的な美点に近いのだ。それは、<本来の自分自身>であること、である。

★ 自由には心理的内面性がないということ――魂は人間の「内面」にのっかっているのではなく、「内面」がはぎとられた後に見つかるものだということ――は、『女と男のいる舗道』が示すラディカルな精神訓示である。

<スーザン・ソンタグ:“ゴダールの『女と男のいる舗道』”―『反解釈』>





現代アメリカの“マルクス主義者”

2010-12-12 13:08:34 | 日記


あなたは、“マルクス主義”という言葉を聞いてなにを想起するのだろうか。

あるいは“キリスト教”という言葉について。

これらの<言葉>を考えるならば、ただちに、“歴史”、“神話”、“社会”、“政治”、“個人”、“権力”、“自由”、“暴力”、“ナショナリズム”、“人権”、“愛”、などの言葉が現れる。

あるいは“主体”、“連帯”、“抵抗”、“闘争”、そして“自己表出”、“科学”、“技術”、“文化”、“芸術”、“物語”、“文学”が現れる。

“文学”が現れるのである。

ぼく自身のことを言えば、“マルクス主義者”であったことはない。

マルクス主義に対する、“関心と幻滅”は、たぶん、多くのこの時代(すなわち“戦後”60数年の)“日本人”の大部分の方々と、“同じ”である。

そして、現在“マルクス主義”は、“反貧困・反格差”闘争として、復活しそうに見えながら、圧倒的な<幻滅>のなかにある。

“収容所群島”から“ソ連官僚国家―自由な消費なき東欧圏”体制の崩壊という“現実”により、マルクス主義は死んだ、と。

かつてマルクス主義を標榜した各国“共産党”は、みな“社会民主主義”というこれまた古色蒼然たる“イデオロギー”に、やっとみずからの逃げ場を確保しているにすぎない、と。

もはやアメリカ帝国主義=グローバリズムの覇権も、新たな世界帝国“中国”の台頭によって脅かされている、と。

このような、<世界>において、<文学>は、いかに可能か?

文学は、上記のようなマクロな(しかし“リアルな”)世界構造のドラスチックな進行にたいして、多様な個人の価値を死守する最後の砦であるのだろうか。

“世界”がどのような破綻に向かおうとも、<文学>はその死の瞬間まで、<私>を表出する、という覚悟を持つべきであろうか?

まったく不勉強で知らなかったが、ここに、“アメリカのマルクス主義者”の本がある。

フレデリック・ジェイムソン『政治的無意識 社会的象徴行為としての物語』(平凡社ライブラリー2010)である。

いま書いたように“この本”は、<今年>刊行された。
しかしこの本の原著刊行(アメリカでの)は、1981年であり、この本の最初の翻訳は1989年平凡社より刊行された。
多くの本の運命のように、この翻訳書も、20年間、復活の日を待っていたのである。

しかしこの本が“平凡社ライブラリー”新刊として、“今年”復活しても、いったいどれだけの人が、この本を“読む”のだろうか。

ぼくがこの“新刊”を書店で手に取ったのは、平凡社ライブラリーとしても、“厚い”この本の存在感と、そのタイトル<政治的無意識>に惹かれたからであった。

そして読み始めたが、すんなりと、この本の世界に入り込めたわけではない。
いったん、読むのをやめたが、なぜかこの本の存在感は、ぼくの未読の本の山から、ぼくを見つめているのであった!

また、読み始めた。
第1章のアルチュセール引用箇所で、はやくも放棄しそうになった。

しかしそこでの、《機械的因果律》と《表現型因果律》の対照をやっと“理解”することで、この本に“入る”ことが可能だ。

たとえば、ジェイムソンが以下のように書くとき、その“モチーフ”は、まだおぼろげながら、届いた;

★ 解釈のジレンマ、そう、私たちはいま私生活中心の世界のなかで、アレクサンドリアや中世の解釈者たちよりももっとせっぱつまったかたちで、このジレンマを生きねばならぬところまで追いつめられている。つまり、私的なるものと公的なもの、心理的なものと社会的なもの、詩的なものと政治的なもの、この両者のあいだに横たわる――すでに述べた――通訳不可能性に、私たちは苦しめられている。(48P)


ぼくは“マルクス主義者である”から、この本を読むのではない。
“マルクス主義者になりたいから”あるいは、“マルクス主義に希望を託したいから”読むのでもない。

読むことは、批判であり、自己吟味である。

ぼくと“ともに”この本を読む人が、ひとりでも現れることを期待して、このブログを書いた。






* 画像は、Annie Leibovitzによる