下記ブログでは、“アメリカのマルクス主義者”について書いた。
昨夜のテレビでは、“アメリカの女性カメラマン”アニー・リーボヴィッツのドキュメントを見た。
そして、彼女が死に直面するスーザン・ソンタグを記録した人であることを思い出した。
ぼくは昔のブログで、<ハロー・スーザン>というのを書いたが、ソンタグの著書は『反解釈』(ちくま学芸文庫1996)しか持っていない。
60年代、ぼくが大学生の頃、“スーザン”は、新しい人だったのに。
また最近読了した大江健三郎『憂い顔の童子』には、“ローズさん”という魅力的なキャラクターが登場する。
彼女は、ノースロップ・フライ(これまたぼくが名のみ知る人だが)の弟子であり、ドン・キホーテ研究家であるとともに、大江=古義人研究家である。
大江はこの“ローズさん”をとても“アメリカ人らしく”表出しているが、彼女は“アイルランド系”である。
また、アニーもスーザンも“ユダヤ系”である。
また、映画「ゴッド・ファーザー」で描かれた一族は“イタリア系”であり、「ウエストサイド物語」で描かれたのは“プエルトリコ系”であり、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」で描かれたのは“チャイニーズ・マフィア”であった(笑)
ならば、“アメリカ人”とは誰か?
現在、日本の(特に)若者たちにとっては、“外国と外国人”というのは、<アメリカ―アメリカ人>のことである。
なにしろ彼らは、“アメリカン・カルチャー”に骨の髄まで浸されて育った(ああテレビ!)
“大人たち(老人たち)”にとって<アメリカ>は、軍事的・産業的“同盟国”なのであった(笑)
なのに、<アメリカ人>について、さっぱり知っているとは思えない(ぼく自身も)
なにしろ、“ネイティブ・アメリカン”とは、現在のアメリカ人の主流でない人々であり、もちろん、現在の“アメリカ人”は、アフリカや中南米やアジアやヨーロッパからの移民であった。
もちろん“ぼくら”はそのことを、知識として知っていても、さっぱりそのことを実感していない。
もし“アメリカ人”を<友人>とするならば、そのような“無知”は、まずいのではないだろうか。
さらに、当然、スーザン・ソンタグは、“アメリカ映画”のみを見ていなかった。
『反解釈』を本の山から取り出して目次を見たら、ゴダール(フランス人だ!)の初期傑作『女と男のいる舗道(彼女の人生を生きる)』(ぼくの一番好きな映画の1本)の評があった;
★ゴダールのテクニックの本質は、この映画劈頭のクレジット・シークエンスと第1のエピソードにそのすべてが現れている。クレジットは、非常に暗くてほとんどシルエットになっているナナの左のプロフィルの上に現れる。(映画のタイトルは『女と男のいる舗道・12のエピソード』である。)クレジットが続いているあいだ、彼女の正面が、次に右顔が、依然として黒々とした影で、映される。ときおりナナはまばたきしたり、わずかに顔を上げたり(長い時間じっとしているのが不快だとでもいうように)、また唇をなめたりする。ナナはポーズをとっている。彼女は見られているのだ。
★ 『女と男のいる舗道』全体がひとつのテクストと見なせるかもしれない。それは明晰さのテクスト、明晰さの探究である。つまり、まじめさ(シリアスネス)についての映画なのだ。
★ ゴダールはこの映画のために、自由と責任についての彼のモットーをモンテーニュから借用する――「あなた自身を他人にあたえなさい。あなた自身をあなた自身にあたえなさい」。売春婦の生涯は、むろんのこと、自分を他人にあたえる行為の最もラディカルな隠喩(メタファ)である。だが、ナナが自分を自分にとっておく姿を、ゴダールはどのように示したのかを訊ねるとしたら、答えはこうだ――ゴダールはそれを示していない。示すというよりは、詳細に究明しているのだ。われわれはナナの動機について遠回しにしか、推論でしか、知らない。この映画は心理学をまったく避けている。感情を、内面の苦痛を探ることがまるでない。
★ 自由は内面の心理的な何かではない――もっと物理的な美点に近いのだ。それは、<本来の自分自身>であること、である。
★ 自由には心理的内面性がないということ――魂は人間の「内面」にのっかっているのではなく、「内面」がはぎとられた後に見つかるものだということ――は、『女と男のいる舗道』が示すラディカルな精神訓示である。
<スーザン・ソンタグ:“ゴダールの『女と男のいる舗道』”―『反解釈』>