Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“ゴカン”とは何か?

2010-12-16 10:40:10 | 日記



適切な表現にたどりつくには、意味と語感の二つの道があるという。意味には字引という案内人がいるが、語感には道しるべもなかった。近刊『日本語 語感の辞典』(岩波書店)の著者中村明さんが、先頃の読書面で出版を思い立った理由をそのように語っていた▼「言葉を選ぶ時に多くの表現が思い浮かぶのは、ものの見方が細やかということです。ものの見方を磨かないと、表現は増えません」。中村さんの指摘は、言葉を生業(なりわい)とする者すべてに重い▼己の仕事は棚に上げて、政治家の「語勘」を問いたい。弁舌のプロらしからぬ「暴力装置」「仮免許」「甘受」。思いが口をついたにせよ、いくらでも言いようがあった。これしきの語感力では、誰のどのおならも〈ぶ〉でしかない。磨くべし。 (今日天声人語)


“語感”というのは、“語(単語)”のレベルだけをいうのではないと思う。

すなわち、あるセンテンスを“しゃべる”にしても、“書く”にしても、どの“語”を選ぶかということのみが、“語感”とは思えない。

逆に、ぼくらが、ある“言葉”に反応しているのも、<単語>に反応しているのではない。

たしかに、あるセンテンスに反応するとき、そこに選ばれた“単語”の選択に反応することはあるが、それは前後の“単語”の連なり(関係)“として”現れる。

さらにある文章を“メッセージ”として受け取るのは、センテンスとセンテンスの連なり(関係)による。

極端な場合、センテンスを成さず、<ぶ!>という言葉が発せられるときも、その<ぶ>の前後には、無言の(無音の)“センテンス”がある。
“行間を読む”とは、そういうことである。


言葉に対して、いちばんまずい態度は、ある意味にはある単語やあるセンテンスが“ひとつだけ”対応している、という態度だと思う。

たしかに、そのほうが“便利”な場合がある。
すなわち、その方が“伝達”が、はやく正確であるという考え方である。

たとえば<過激な性表現は禁止すべきだ>というメッセージである。

“語感”のない人にとっては、上記のセンテンスは、きわめて明確な“意味”を伝えられるはずなのである。

面倒で、“ブンガク的な”表現はいらない。
<過激な性表現>から<青少年>を<守る>のは、あまりにも<当然>である(神の摂理か、自然法則のように!)

しかし、<過激な性表現は禁止すべきだ>というセンテンスが、“だれにでも明瞭”ならば(ただひとつの“意味”ならば)、それに対する、“疑問や反対の意見”が嵐のように噴出するわけがない。

すなわち、ある人々にとっては、“議論の余地なき”真理言説(センテンス)も、その<語感>を問われる。

端的に<伝達>は、なされなかった。


上記天声人語で、ぼくがいちばん嫌いな<語感>は、

《己の仕事は棚に上げて》である。

もし日本語を勉強した火星人がこの文章を読んだら、この文章自体を、“理解不能”と思うだろう。


中村明さんの《ものの見方を磨かないと、表現は増えません》にも一言。

“ものの見方を磨く”には、どうしたらよいのか?

もし<言葉>のレベルを言うのなら、“よい本=よい文章”を読むこと以外にはないのではないか、“辞典”ではなく。