Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

このひとは<I>(私)ではないのか?

2010-12-17 08:45:31 | 日記



今日の読売編集手帳;

独断専行で暴走しがちな同僚を諭して、麻薬捜査官が言う。「われわれはチームだぞ。チーム(TEAM)にI(私)の字はない」。同僚は内心つぶやく。「勝利(WIN)には私(I)が入っているよ」◆ドン・ウィンズロウの小説『犬の力』(角川文庫)のひとこまにある。どういう組織であれ、I(私)の功名心を抜きにして活力は生まれない。Iの暴走は、しかし、ときにチームを崩壊の危機に追いやることもある◆大阪地検特捜部による証拠改竄・犯人隠避事件の責任を取り、大林宏検事総長が辞任する意向を固めたという◆被疑者の口を割らせる“割り屋”として令名の轟いた特捜検事を証拠改竄に走らせたのは、歪んだ功名心と、俺たちは万能だという驕りであったろう。検察の信頼が地に堕ちて喜ぶのが犯罪者であることを思えば、トップの辞任に同情の余地はない◆泣く子も黙る最強チームで、ボスの首が飛ぶ。その衝撃を所属する一人ひとりがどう受け止めるか。傲り(HAUGHTINESS)から不埒なI(私)を取り除き、その単語を検察庁の辞書から放逐しない限り、何も変わらない。(引用)



上記の文章を書いた人は、“きょうもシャレた文章が書けました!”と内心にんまりしたのだろうか。

もしそうなら、それは“HAUGHTINESS”である。

“検察”が傲っているなら、大新聞もおごっている。

もし<I>が、この文章の書き手のように“功名心だけの不埒なI(私)”でしかないなら、どんな組織も、どんな社会も破綻する。


“人間などこの程度のものだ”という、わけしりの世間の常識に媚びる<人間観>こそが、この社会の機能不全と閉塞感を生み出している。

<人間=私>についてあまい楽観は許されないが、はなから、<私>の限界を(自分がそうだからといって)当然視しては、なにひとつ“考えること”はない。

上記読売編集手帳の人間観は、<絶望>に奉仕している。

この書き手には、<私>がない。