★ 子供のときには、もっぱら不快、不安、恐れとして、身体と感情でじかに反応するしかなかった事態は、大人になることで少しずつ理解され、克服され、懐柔されていく。なぜかわからないまま、不気味だったり、恐ろしかったりした対象は(それは対象でさえなく、自分の心身そのものと区別がつかなかったのだが)、手なずけられ、退けられ、解釈され、いつのまにか解消される。そのような対象は、しばしば死の脅威に、あるいは性的な次元に結びつき、また大人たちの生活の気苦労やタブーや、歴史的、社会的な事件からやってくる直接、間接のさまざまな不安だったりする。
<宇野邦一『他者論序説』(書肆山田2000)>
上記引用で、ぼくが好きなのは、《(それは対象でさえなく、自分の心身そのものと区別がつかなかったのだが)》というカッコ内の書き込みである。
こういう文章があるから、ぼくは宇野邦一を信頼することができる。
あるいは、このカッコ内の文は、上記の記述を、“正確に”しているといってもよい。
ぼくはある年齢を超えてから、このカッコ内に書かれているような、自分が幼児だった頃の<瞬間>をふっと想起する(感じる)ことがある。
それは、淡く、すぐ消えてしまうが、大人になってからはけっして体験し得ない、言葉にしえない幸福のような“感じ”である。
★ まさに貴女こそは、私の人生も、私の思考も極端なポジションのあいだで動いている、ということが決して見えていないわけではないでしょう。このような思考が主張する広がり、あるいは、とてもいっしょにすることのできない事物や思考を並べて動かすという自由、それは、危険を通じてのみ表情を獲得するものなのです。この危険は私の友人たちから見ても、あの<危険な>関係のかたちでのみ目に見えるものなのです。
<ヴァルター・ベンヤミン:アドルノ夫人グレーテルへの手紙―三島憲一『ベンヤミン』(講談社学術文庫2010)より引用>
* 画像は、Annie Leibovitzによる
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