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書評「100分de名著 道元 正法眼蔵(ひろさちや)」

2016-11-27 20:19:11 | 書評(仏教)


私が坐禅のやり方を最初に覚えたのは、お寺でではなく本からだった。その本は、ひろさちや監修による「禅を楽しむ本」で、とっつきにくい印象のあった坐禅をとてもわかりやすく教えていただいたのである。そして、ひろさちや氏は、100分de名著において、道元著による難解そうな正法眼蔵を平易な言葉で解説してくれている。テレビでは優しくてとても熱意のこもった語り口が印象的であった。ひろ氏によると、正法眼蔵は仏教の智慧を言語化した哲学書であるという。そして、日本の仏教者で哲学者でもあったのは、道元、空海、親鸞の3人だという。大著である正法眼蔵からエッセンスを抜き出し、第1回・「心身脱落」とは何か?、第2回・迷いと悟りは一体である、第3回・全宇宙が仏性である、第4回・すべての行為が修行である、の4つにまとめている。

第1回・「心身脱落」とは何か?、では、「悟り」とは求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させる、つまり心身脱落させるのだと言う。悟りは捉えるものではなく、その世界に溶け込むののだと説く。ひろ氏は、全て心身脱落したら死んだも同然、少しだけ心身脱落すればいいのだよとテレビで語っていた。
第2回・迷いと悟りは一体である、では、迷いながら歩もうと言う。悟りの世界をすべて学びきってから歩もうとしてはだめである。自分の必要な分だけ悟っていればいいのである。そして一歩一歩歩んでいけば、自然にまた次の道が見えてくるようになるのだと考える。坐禅や瞑想をしたり、はたまた禅門で修行したりしていても、まだまだ迷うことがあるけれど、そのままでいいので、さらに前へ歩いていこうということだ。とても勇気を与えてくれる言葉だと思う。
第3回・全宇宙が仏性である、において、道元は「存在と時間」で知られるドイツの哲学者ハイデガーをも超える哲学的な時間論を展開していると説明する。時間というものは、「過去→現在→未来」へと流れていくものではなく、「現在・現在・現在」なのだとする。今だけあるのだ。
第4回・すべての行為が修行である、においては、あらゆるものが仏性であるのに、なぜ修行をするのか?と問う。それは、仏性を観点的に理解していてもだめで、仏性を仏性として活性化させるために必要なのだと説く。そして、修行とは、禅堂で坐ることだけではなく、食べるのも眠るのもすべて、日常生活すべてがそうなのだと言う。そして、修行に向けて実践すべき徳目として、布施・愛語・利行・同事を挙げている。これは、利他の実践と言えるだろう。ここのところはほんとにできていないと思う。できるようにしていこう、ちょっとずつちょっとずつ。



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