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僕の読書ノート「進化医学 人への進化が生んだ疾患(井村裕夫)」

2021-01-30 11:07:31 | 書評(進化学とその展開)

病気の原因を進化学の立場から解明するのが進化医学。日本語で書かれた進化医学の教科書としては、2013年刊行の本書が唯一かと思われる。著者の井村裕夫氏は、進化医学は今なお医学のなかで市民権を得ていない状態であるが、ドブジャンスキーの言葉をもじった「ゲノム進化の理解なしには、生物学も医学も意味をなさない」という立場に立って本書を執筆している。

各章ごとに、とくに興味を持った点をまとめてみた。

 

第1章 病因論と進化医学

・進化医学は、疾病の診断、治療に直接役立つものではないが、疾病の発生病理をよりよく理解し、対策を考える上で多くの情報を提供してくれ、研究者が自らの研究の意義をよりよく理解するのに必要だとしている。また、一般医家にも一般人にも多くの情報を提供してくれる。例えば、ビタミンC不足、高尿酸血症、新興感染症、自己免疫疾患やアレルギーなどの進化学的意義を考えることで、医師の日常の診療や一般人の健康の維持に役立つことができるという。

 

第2章 生命進化38億年の歩みと疾患 

・ミトコンドリアはなくてはならない細胞内小器官であるが、10億年以上前に細菌がわれわれ真核細胞に共生したのが由来である。そのため、組織が傷害されるとミトコンドリアのDNAやホルミルペプチドが放出され、それらが細菌の成分と類似しているので、Toll様受容体9やホルミルペプチド受容体Ⅰを介して自然免疫を誘発し、敗血症のようなショック、多臓器不全を伴う炎症正反応をきたすことがある。つまり、外傷によって細菌感染と類似した反応が引き起こされる。

・腫瘍は多細胞生物に進化してから出てきた。多細胞生物でも、海綿では腫瘍の存在は知られていない。サンゴでは腫瘍らしいものが知られている。三胚葉系生物である軟体動物、線虫、昆虫、甲殻類では種々の腫瘍が知られているが、増殖が遅く、転移する例は知られていない。脊椎動物では魚類、両生類、爬虫類のいずれでも悪性腫瘍が知られており、転移も観察されている。鳥類、哺乳類などの温血動物では腫瘍の発生はいっそう増え、とくにヒトで多い。ヒトでがんが多い一番の理由は長寿になったことであるが、その他にもライフヒストリーの変化、さまざまな化学物質への接触、カロリー・脂肪摂取量増加、感染症など様々なものがある。進化医学からみたがんの存在理由が考察されるようになったが、まだ十分理解は進んでいない。

 

第3章 人類への進化と疾患

・各種霊長類の比較から、脳の大きさと腸管の容量との間に負の相関があり、エネルギー消費の多い腸を短くすることによって脳を大きくすることができたという仮説がある。脳の発育や維持には、大量のエネルギ―、脂肪、タンパク質を必要とする。原人が石器を使用するようになり動物の死肉や骨髄を食べるようになったこと、ホモ属が火を用いて料理するようになったことで、腸への負担が軽減され腸が短くなり脳の発達に貢献したという考えだ。

 

第4章 進化生物学と医学

・外適応(エグザブテーション)とは、ある機能をもって進化してきたものを、全く違った機能に活用することをいい、すでにダーウィンが指摘していた。例えば、断熱の目的で進化した羽毛を、鳥が空を飛ぶのに使ったこと、魚の顎骨に関連した骨を地上動物が中耳の耳小骨に使ったことなどがある。また、眼のレンズである水晶体の主成分はクリスタリンというタンパク質であるが、酵素遺伝子がそのままクリスタリンとして用いられていたり、元は酵素遺伝子であったものが重複して変異を重ねてクリスタリンとなっていることが明らかになってきた。

 

第5章 進化ゲノム学

・ここでは、転移エレメント、非コードRNA、インプリンティング、エピジェネティクス、遺伝子重複、全ゲノム関連解析(genome-wide association study: GWAS)、分子進化の中立説、進化発生遺伝学(Evo-Devo)といった重要なキーワードがたくさん出てくる。

 

第6章 感染と防御機構の進化

・宿主に本来存在しない寄生体が侵入し、定着することを感染とよぶ。感染によって宿主に病的状態が起こることを感染症という。寄生は生物の世界ではきわめて普遍的な現象であり、最も小さい細胞体であるマイコプラズマに感染するウイルスも知られているし、最大のウイルスであるAcanthamoeba polyphaga mimivirusにはスプートニクという小さなウイルスが感染するという。

・宿主と寄生体の関係は軍拡競争に例えられる。宿主は次々と防御機構を進化させたが、寄生体はそれを巧みに回避する手段を用い、共進化してきた。自然免疫や獲得免疫に関与する遺伝子には選択圧の証拠がみられることから、寄生体が免疫機構に巧みに対応して宿主に脅威を及ぼし続けていることが示されている。寄生体の対応は軍拡競争というよりは、ゲリラ型の戦術だとしている。

・現代においてアレルギーが増加している理由として、衛生仮説と旧友仮説がある。衛生仮説では、環境の変化によって感染症が減少し、Th1(細胞性免疫)優位からTh2(液性免疫)優位へと変わったことがアレルギー増加の原因であると説明するが、アレルギー疾患においてもTh1型の反応は見られるし、Th1あるいはTh17系の炎症性病変であるⅠ型糖尿病、炎症性腸疾患、多発性硬化症などは、衛生状態がよい先進国でむしろ増加していることから、十分説明できていない。旧友仮説では、哺乳動物の腸内にいる旧友である共生菌や寄生虫はTregを誘導して免疫系を制御しているが、旧友が存在しなくなってそのような制御が働かなくなりアレルギー疾患や炎症性腸疾患が増加したとしている。どちらの仮説が正しいか正しくないか不明であるが、寄生体の少ない環境になったことで免疫系の調節に異常が生じていることは確実だろうということだ。

 

第7章 栄養・エネルギー代謝と進化

・酵母の細胞質や、線虫、昆虫の体液中の主要な糖質はトレハロースである。トレハロースは、エネルギー源であるだけでなく、細胞保護作用もある。脊椎動物では、トレハロースよりエネルギー効率の高いグルコースを使用するようになった。しかし、グルコースは還元糖であり、糖化によってタンパク質を障害する可能性がある。糖化の防止は重要であり、血中グルコース(血糖)の濃度を狭い範囲に保つことが必要となり、インスリンの進化が起こったと考えられている。

・肥満が存在する理由の説明として、倹約遺伝子仮説がある。獲物をとったときに飽食により効率よくエネルギーを蓄積した者が飢えのときに強くて生き残ったが、食物の豊かな現代社会ではそれが肥満、糖尿病の原因になるという説である。しかし、飽食によって効率よく脂肪を蓄積するためには、インスリンへの感受性が高くなければならないが、一般に肥満者や糖尿病者では早期からインスリン抵抗性があることが知られている。また、倹約遺伝子に相当するものも見つかっていないため、根拠はないと考えられる。

 

第8章 捕食ー被食関係、体の大きさ、寿命の進化医学

・交感神経系は、防衛反応あるいは緊急反応で重要な役割を果たしている。捕食者に遭遇して、戦うか、逃げるかをとっさに判断しなければいけないとき、交感神経系の緊張が強いられた。パニック障害という病気は、発作的に現れる強い不安感、心悸亢進、めまい、消化器症状などを主徴候とするもので、緊急反応に類似している。緊急反応は、闘争か逃走のための反応で、すべてのヒトに起こるが、その反応が不適切に起こるのがパニック障害である。捕食者の多い環境では臆病なほうが有利であったが、捕食者のいない現代の社会では病気の原因になったという仮説がある。ダーウィンがパニック障害だったという説もある。

 

第9章 脳と心の進化と疾患

・人間は他の生物にはみられない精神的能力ー例えば、言語、社会性、将来を計画する能力、宗教心、利他主義などーを持っている。しかし、これらの特徴の萌芽を他の生物に見出すことができる。ヒトでとくに発達しているところがあるとはいえ、基本的に連続性があると考えられる。ダーウィンは1871年の「人間の進化と性淘汰」の著作のなかで、人間と下等動物の心的能力について、記憶、想像力、感情、自意識、美の意識、社会性などを比較し、両者に大きい違いがあるとしてもそれは程度の問題であって、質的な相違ではないと述べている。これは、進化心理学の基礎となる概念でもある。

・精神疾患や関連する障害の中でも、自閉症スペクトラム障害、ウィリアムズ症候群、注意欠陥・多動性障害、統合失調症、うつ病などは進化学的な説明が可能になってきた。一方、神経性食欲不振症などの摂食障害、性同一性障害、自殺、自傷行為などは、進化学の立場から説明が困難である。これらの中には長い進化のなかで形づくられてきた、人間の心と現代の文明とのミスマッチによるものもあるかもしれない。

 

最後に、「おわりに」で述べていることは、進化と病気の関係はトレードオフの関係にあるということだ。トレードオフとは、一方を追求すれば他方を犠牲にせざるをえない二律背反の状態、あるいは関係をいう。とくにヒトは長い生命進化の歴史から見ると非常に短い期間に環境を大きく変えてしまった。そのことが、爆発的な糖尿病の増加や精神疾患の漸増という結果を生んだとしている。また、個体差が大きいほうが環境変化によく適応できるが、一方では先天性疾患が多いことにもつながる。進化と病気は共存していく運命にあるのかもしれない。



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