他者の心を読む能力とそれを司る脳はいつ進化したのでしょうか?人間に特有のそうした他者の心を読む能力は「心の理論」と呼ばれ、「共感」とは異なるものとされています。また、「心の理論」は、人間でも自閉スペクトラム症においては、その発達が遅れることや弱いことが示されています。「心の理論」は人間だけが持つものとされていたときもありましたが、現在では少なくとも霊長類のチンパンジー(類人猿)、マカク(旧世界ザル)、オマキザル(新世界ザル)には存在していることが示唆されており、人間だけのものではないと考えられています(「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」フランス・ドゥ・ヴァール)。賛否両論はありますが、人間の幼児に「心の理論」が発達してきたことを判定する方法として「サリー-アン問題」というものがよく知られています(「自閉症スペクトラムの精神病理」内海健)。しかし、これは言語を用いる検査法なので、動物には利用できません。動物ではどうやって検査するのでしょうか?
今回紹介する論文は、そのマカクにおいて視線の動きを解析することで「心の理論」の存在を確認し、それを司る脳の部位が内側前頭前野にあることを示したものです。新潟大学のグループによる研究で、セル・レポート誌に掲載されています(「マカクは内側前頭前野を介して、他人の誤信念に基づく行動を予測する暗黙の視線バイアスを示す」Macaques Exhibit Implicit Gaze Bias Anticipating Others’ False-Belief-Driven Actions via Medial Prefrontal Cortex, T. Hayashi, et al., Cell Reports, VOLUME 30, ISSUE 13, P.4433-4444.E5, MARCH 31, 2020)。
下図にその研究成果の概要が示されています。右から、ヒト、ボノボ、チンパンジー、オランウータンには「心の理論(theory-of-mind)」様の機能があることが知られていましたが、今回、その左のマカク(2500万年前にヒトなどの類人猿と分かれて進化)でも「心の理論」の存在が確認されました。そして、マカクの脳の内側前頭前野というところを、実験的操作で一時的に機能抑制すると、「心の理論」様機能が抑制されたので、その脳部位が「心の理論」様機能に重要な場所であることが示されたということです。内側前頭前野はヒトにおいても同様の機能に関わっているとされている脳部位です。
「心の理論」の能力を評価する方法の一つとして、ヒトが相手のこころを理解しているかを確かめる方法の一つに、相手の誤った思い込みを正しく理解して、その思い込みにもとづく相手の行動を正しく予測できるかを調べる「誤信念課題」があります。ヒトの脳画像研究により、「誤信念課題」の実行中に内側前頭前野を含む広範な脳の回路が活動することが知られています。また、チンパンジーなどの類人猿にも誤信念を理解するかのような行動がみられるという報告が出てきましたが、脳の回路がどこに存在するかはわかっていません。そこで、神経科学の実験動物として使用できるマカクにおいて、「誤信念課題」を解く能力、そして脳回路の部位を確認する研究が行われました
マカクの一種であるニホンザル8匹を用いて、映画を見せながら、眼球運動を赤外線カメラシステムで測定しました。映画はいくつかのバージョンがありますが、あるヒトが相手のヒトと競争しており、ターゲットとなる物体をどこかに隠すが、相手はだまされて誤信念を持つというパターンになっています。サルの視線を確認したところ、動画の登場人物の「誤信念」に基づく行動を予期するような視線の偏りがあることがわかりました。つまり、マカクには「誤信念課題」を解く能力のあることが示されたことになります。
さらに、内側前頭前野の神経活動を遺伝子ベクターとそれを作動させる薬剤によって抑制させた状態で、同じ動画を見せたところ、サルは登場人物の誤信念を理解して行動を予測することだけができなくなり、標的の動きを目で追う能力が認められなくなりました。したがって、内側前頭前野の神経機能抑制により、他者の誤解を読み取って行動を予測する能力が低下したと考えられました。これらの結果から、内側前頭前野を核とする脳回路の働きに支えられた「心の理論」の能力が、ヒトとマカクザルの共通の祖先から進化した可能性が示唆されました。
参考のため、内側前頭前野と外側前頭前野の位置と機能をわかりやすく示している下記図を、別のサイトから引用させて頂きました(脳のはなし、2019.05.10「背外側前頭前野と背内側前頭前野」)。