18年にもなりますか

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きちんとしたジャッジができないとこうなる

2006-08-11 00:46:58 | スポーツ
 8月10日の横浜VS阪神の試合での、明らかな主審の誤審。また他の審判もよってたかって「確認できてない」との事で、試合をぶちこわしにした。「確認できていない」というのはそのまま「見てない」と言うことだ!恥をしれ恥を!つまり審判としての仕事をしてなくて、よそ見してましたってこと!

 世の中便利になったので、その時の映像がすぐにネットで配信される。
 有名なYouTubeのサイトに、早速その時の映像が掲載されていた。
 http://www.youtube.com/watch?v=hAsEXW6CkJU
 
 見て分かるように、こんな有様。審判が四人とも確認できないんだったら、潔くビデオで確認すればいい。

 ボクシングの亀田選手の試合も、いまだに騒がれているが、これもやや偏ったジャッジではないかと世間で思われている。

 一般のシロウトだけがそう思っているのではない、試合を見ていた多くのボクサーも、リングサイドで解説をしていた元チャンピオンも、みんな亀田は負けたと思っていた。
ボクシング協会の原田会長も多くを語らない。つまりボクシングには”そういうこと”がままあるからだ。”そういうこと”とはつまり、大方の予想に反したジャッジが下されるということだ。

 ネットでは、改めて試合のビデオで採点しなおして、亀田がポイントで上回っていると主張している人もいる。

 ご苦労様。すばらしい採点眼をお持ちです。それって仮に試合の結果が逆でもそういう判定になるのかしらん?結果が分かっていてその検証をやってもそれは、ちょっとは意味を持っているが、単なる自己満足。結果が逆で、「それはおかしい!」と抗議の意味を込めて採点して、俺の採点の方が正しい!と言われるのか、ちょっと関心がある。

 ボクシングはあきらかに地の利がある。これは仕方がない。もし、自分の採点結果と、ジャッジによる結果が異なったときに、「地の利かな」だとか「ジャッジの好み」ということがその理由になるなら、最初から「自分の採点では・・・」というのを持ち出さない方がいい。

 いずれにせよ、両方のケースともに後味が悪いことには変わりない。


 このように審判とは単なるジャッジではないのだ。

 だからサッカーワールドカップ2006ドイツ大会で、3位決定戦であっても、日本人が主審副審を勤めたというのは実はすごいことなのだ。

 ラグビーやサッカーは、試合中、ファウルがあっても、ボールがそのファウルを犯したチームと反対のチームに支配されているときは、”アドバンテージ”を見るという事をやる。試合の続行性を大事にするからで、いかに全体のテンポを産むのか分かっているからだ。これは両チームにとってありがたい。この時のレフェリングがど下手だと、やっぱり試合が壊れてしまう。

 Jリーグでも結構そういう、主審の力不足からくる変なレフェリングで試合を壊されてしまうことが少なくない。

 こう考えると、スポーツが楽しめるかどうかは、選手、監督、そしてジャッジの3要素に掛かっているということが言える。

 話は最初にもどって。横浜VS阪神、なんですぐにビデオで確認しなかったのだろうか?




  
 

まず、ミッションが最初

2006-08-04 23:16:13 | 
 ワタミフードサービスの社長である渡邊美樹氏の講演や著書あるいは雑誌インタビューはかなりチェックしてきたつもりだが、最近あるサイトで見つけたひと言があった。

 普段、この渡邊氏やその他多くの起業した人たちの、起業の原動力、あるいは意義の持ち方はどこにあるのかに関心があったが、そのサイトでは彼の言葉だけではなく彼の生い立ちまた人生観にも触れていたこともあり、彼の原点が分かったように思う。またなぜ起業するのか、そして起業して会社を大きくするのはなぜなのか?についての一つの答えが書かれてあった。

 簡単に紹介しよう。

 例えば、ボランティアで養護施設へ活動に行くとする。さてそこにはどんな意義があるのだろうか?ボランティアだからお金の為ではない、自己満足か?自己満足の為だけに大変なボランティア活動はできるものではない。

 そう、そこには、「使命感」が必要なのだ。その使命感はじっとしていても生まれてくるものではない。人が生まれて成長していく中で、人が生きるなかで、人はどんな使命を持っているのか?ということを少しずつ時間をかけて学んで行くものだ。

 特に欧米ではこの考え方は顕著で、もちろん背後に宗教(キリスト教)がしっかりと根付いているからなのだが、教会へ出かけたり、ボランティア活動をしたりなどかなり身近なところに、そういう”使命”を考える機会がころがっている。サッカーワールドカップ2006ドイツ大会決勝で頭突きをして退場になったジダンに科せられた罰にも、社会奉仕があった。


 この使命、つまりミッションをしっかり意識する。私たちはなぜこれに取り組まなければならないのか?と言うことをしっかり理解することが全てのはじまりであると渡邊氏は言っている。

 そして、ミッションが明確になると、今度はそれを”どんな形にする”のかがヴィジョンである。 つまりこうなりたい、こういうことが出来るようになりたいというのを描く。私たちは往々にして、この”こうなりたい”を最初に考えてしまうから、十分なパワーにならないのかも知れない。例えば「お金持ちになりたい」というのが一つの例。「お金持ちになって、どうするの?」という問いに、「自分の使命を果たすため。」と答える人は何人いるのだろう?殆どの人が、「一生遊んで暮らす、買い物をする、高級ホテルに泊まる、世界一周」だとかになる。別にそれを悪いと言っている訳ではない。ただ起業してちゃんと成功する人はそう考えない。

 そして最後にそれをどんな風に実現するのか?というのが戦略(ストラテジー)である。

 渡邊氏は、これを自分自身の原体験を通じて身につけたと言っている。だから大変簡潔でかつ説得力がある。

 さて、進路のことや就職のことで悩んでいる多くの若い人たち、あるいは、そろそろ転職を考えようとしている人たちにはこの3つの単語はどのように感じられるだろうか?

 改めてミッション、ヴィジョン、ストラテジーを考え直したい。そして本当に意義の感じられる人生としたい。人生の約半分を経過してから気づかされたが、しっかりと受け止めたいと思う。

 まずは、ミッションから。





K-1の登場

2006-08-03 20:37:51 | スポーツ
 1993年に登場したK-1グランプリは、足かけ13年。あっという間にファンをつくり視聴率を稼ぐイベントとなった。

 それまでの日本の格闘技の代表はプロレスリングだった。ワールドプロレスリングという番組がゴールデンタイムに放映され、古舘伊知郎がまだ局アナで、プロレスの実況をしていたころだ。

 しかし、人の目はだんだんと肥えてくる、あるいは贅沢になってくる。興行としてのプロレスももちろん迫力があり楽しめるのだが、少しずつ時代が、本当に強いのは誰なんだ?」ということを求めてきていた。アントニオ猪木VSジャイアント馬場の対決を期待しちた事もそうだし、モハメドアリVS猪木もそういう期待から企画された。そのころから異種格闘技と呼ばれた戦いがあったのだ。

 そういう中で、登場したK-1はまさに、”誰が強いのか”をガチンコで決めるヘビー級の迫力の戦い。さらに”PRIDE”が登場し、K-1とともに本当に強いヤツは誰なのかを決める格闘技として多いに盛り上がった。

 テレビ局とのタイアップで、どうしても”興行”の要素が必要になり、ショーアップも、対戦組み合わせも手を尽くしているが、やや食傷気味だが、戦っている者同士は、真剣そのもの。満身創痍のなかでトーナメントを勝ち抜く。

 ところで、なぜここまで格闘技が人気を保っているのだろうか?

 それは、まさしく、ガチンコ勝負であり、戦いそのものにはやらせの要素はなく、一瞬、あるいは一撃で相手をKOやギブアップへ持ち込めるホンマものが持つ迫力と、公正な判定があり続けたからだ。

 今回の亀田興毅選手も、戦いそのものは真剣で、彼の本当の”根性”が見られたすごい試合だった、しかし、いま多くのマスコミやネットで騒がれているように、どうしても多くの、試合を見ていた人達の頭の中では、判定に疑問符がついているのだ。

 Yahoo!の投票でも90%以上の人がそのように票を投じている。

 亀田一家のこれまでの戦いで、せっかくボクシング熱が盛り上がってきていたところに、ボクシング全体をしらけさせかねない結果。K-1やPRIDEがそんなのだったら誰も見ないだろう。

 今回の戦いを見て、戦っている当事者は真剣そのもの、限界ぎりぎり、あるいは限界を超えていたに違いないが、その周辺の人たちはどうだったのだろうか?

 興行的に盛り上げる為には何だってするテレビというメディア。試合開始2時間前からの放送など、ちょっと冷静に考えれば”はしゃぎすぎ”に見えたTBS。 あ、またTBSか・・・なんか疑惑の多いテレビ局やなぁ。 

 いずれにしてもK-1やPRIDEのような納得できる内容と結果が、賛同と感動を呼ぶのだ。ボクシングという過酷なスポーツを誰も汚してはいけないのだ。






亀田興毅チャンピオンか?

2006-08-02 22:05:41 | スポーツ
 試合開場に来ていた人も、テレビを見ていた人も、テレビの解説者も、まさか判定勝ちするなんて思っていなかったのではないだろうか?

 マジ?

 見る人がみれば、当然の結果というのならまあ納得するけども、リングサイドの解説者でさえ、無理だというニュアンスの発言を12ラウンド終了後にしていたのが、この結果である。

 え?聞き間違い?ジャッジの書き間違い?

 ほんまかいな・・・というのが正直な感想なのだが・・・

命ひとつ

2006-08-02 00:34:45 | 
 19歳の女子大生が、飲酒運転の車に轢かれて死亡。運転していた被告と、飲酒を停めなかったその友人が罪に問われるというニュースが流れていた。交通事故死という定義だけでも年間2万人前後の人が死んでいる。でも、これはあきらかに「殺人」なのだと言うことを改めて認識した方がいい。

 亡くなった女子大生の両親にしてみれば、娘が生まれて19年間、叱ったり、泣いたり、笑ったり、褒めたりしながら、育ててきたはずだ。子供がいるからこそ家庭が家庭らしくなりたち、家族が家族としての絆をしっかりと結びつけてゆくのだ。

 そしてこれから将来どんな仕事に就こうかという希望に満ちあふれた未来を描いていたかもしれない。

 ところが、「飲酒運転」の「交通事故」が彼女の将来を奪い、彼女の両親からは、家族も家庭も、そして将来をも奪った。

 飲酒運転による交通事故。

 モノが満ちあふれるこの時代にあって、もはやなんの新しい響きもない。感覚がマヒしているのかもしれない。この「飲酒運転による交通事故」。やはり懲役はもっと重くすべきだ。「すみません、ごめんなさい」で済む問題ではないのだから。

 想像してほしい、19年育ててきた娘が、飲酒運転の車に轢かれて死亡する。

 両親の思い。死亡した本人の無念。人の死は多くのモノを奪う。人の死は取り返しようがないものも奪う。多くのモノを奪い、取り返しようのないものも奪う。それに対する償いは、徹底的に重くすべきだ。

 繰り返し書くが、「スミマセン、ごめんなさい」では決して済まないのだ。