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いじめと安心

2004-10-20 02:40:46 | 
 いじめに関する心理的背景をいくつか書いたが、その対局にあるかのような"安心"という気持ちは、いじめと決して無縁ではない。

 心が安まると書いて安心。なぜかみんなおなじように心安まることを求めている。心安まらない日がないわけではないが、一向に安心出来る状態にはならない。いろいろと突き詰めて考えるとどうも"遺伝子"レベルの話になりそうだが、今回の"安心"もそんなアカデミックなものではない。

 この"安心"を追いかけてやまない人間は、じつは"絶対的な安心"よりも、一時しのぎでもいいし、ほんのつかの間でいいから、"安心"を味わいたがっている。それの最たるものが、先にも述べた”いじめ”である。

 近代日本に生まれると、生まれたとたんに”標準かそうでないか”のふるいにかけられて、”標準だと安心”、でそうでないと"不安”になるように何十年もかけて育てられてしまっているのだから仕方ないといえばその通り。しかしながら、この怪しげな策略にまんまとはまってしまうと、じつは”いじめる側”に立たざるを得なくなってしまうのだ。

子どもが、お互いの人間として、関係づくりをはじめる1対1の状態から、1対n(複数)の関係になってしまうとき、n側に立たないと、”おかしな奴&”;扱いされたり、”;いい子ぶってる”と言われ、n側から排除されてしまったり、1側の立場に置かれて、n側からいじめられてしまうことになるのだ。

 もともとn側でも1側でも無いのだけれど、自分の”安心”のために、n側に回って1をnの他のメンバーと一緒になっていじめるのである。いわゆる踏み絵を踏まされてしまうのだ。
n側の大将は、取り巻きや賛同者を増やすことで安心し、逆らう奴や気に入らない、どこか自分にどこかが似ていたり、それは本人の意識の働かない世界での事なのだが、どうしても認めたくない相手を見つけ、みんなで”いじめて”仲間意識の確認をして”安心”したがるのである。

 こう書くと、本当に意志の強い奴は”いじめる”なんてことはしない筈なのだ。人をいじめて安心感を得ても、時間が経過すればやっぱり不安になり、前回よりももっと露骨ないじめや無視をし始めるだけである。

 なぜ、時間の経過がより露骨ないじめを生むのかの真の理由は、別の専門家にお任せして、いま事実として言えることは、いじめる側はいじめられる側よりも”不安”で"心細い”といえるかも知れない、自らが”標準に漏れている”かもしれない不安、いつ”標準外になってしまうかもしれない”という不安、そのことを”いまさら素直に認められない”という事などが図らずともいじめを生んでしまうのである。別の見方をすると、いじめる側は”標的”にされてしまう子どものことを深層心理の部分で、“こいつには勝てない”と感じているのかもしれない。だからこそ”仲良くなる”という知恵を使って人間は生きてゆくはずなのだが、残念ながら昨今のニュースはそういう事実は伝えてはいない。

 いじめる側もいじめられる側も”お互いに不安”な心細い存在ならば、本音の部分で共感し会えるはずなのだから、なんとか仲良くなれる関係をつくれるように、本人たちも、大人を含めた周囲も考えて行くべきではないかと思う。

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