18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

他の人と違うということ(2)

2004-10-13 02:37:50 | 
赤ちゃんが生まれると、定期的に「検診」が行なわれる。先天的な疾患がないか、成長が著しく遅れていないかなどを検診してくれるのだ。普通に考えれば、病気などの有無を看てくれるのでありがたい話だし、初めて赤ちゃんを持つ母親の立場に立てば、客観的な診断は大変心強いものだ。赤ちゃんの具合が普段と少し違う時など、昔なら同居している実の母親や祖母、しゅうとめに相談してみたりしていたのだろうが、核家族という言葉も敢えて使わないくらい、同居が減っている現在ならおさらである。

 そんな乳児検診なのだが、一方で悪い面もあるのだ。それは、検診がいわゆる「人並み」の成長をしているかどうかが安心のよりどころとなり、その安心感の測り方から主体性を奪ってしまう点だ。分り易く言えば、身体や言葉などが「標準的な成長」をしていないとすべてが不安になり、なんとか「標準」「人と同じ」ことに安心を求めてしまうという点だ。赤ちゃんは、それこそ場合によっては2000グラムにも満たない状態で生まれてくる場合もあるし、4000グラムを越える場合もある。肌の色、髪の毛の色や量なども違うのだ。みんなとなりの赤ちゃんと同じという訳にはいかない。その赤ちゃんたちが成長して、幼稚園や小学校に通うようになればもういっぱしの口をきいたりする。口の達者な子もいれば、あまりしゃべらない子どもだっている。サッカーや野球が好きで仕方ない子どももいれば、家でお人形さんごっこが好きでたまらない子どもだっている。

 一方、子どもにはいろいろな経験や体験をさせるべきで、例え本人があまり積極的に望んでいなくてもやらせる方がいい。子どもの価値観は絶対ではないから、いろんな事を知ることは大変大きな意味を持つ。子どもに多くの考える余地や試行錯誤をさせ、失敗を繰り返し経験させてそのなかから成功する知恵を身につけるという意味で、「子どもには自由にさせる」のは大いに意義があるが、「自由に育てる」意味を間違ってしまうと、「経験させるか経験させないか」すらを自由にさせることになり、次第に「嫌なこと、嫌そうなこと」を避ける生活になってしまう。

 そんないろいろな経験や体験を通じて、自分には出来ないことをやれる”奴”がいることや、一方で自分にしかできないで、友達と教え合うということを学び、自分が周りの人と違う事や、ちょっと周りの人と違った奴と付き合う方法だって覚えてしまうはずである。

 ところが、肝心の”親”が「あの子と遊んじゃダメ」だとか、”人と少し違う”子どもと一緒に居ることさえ避けていたりする。特に身体に障害がある同級生がいた場合など、「××ちゃんみたいにならなくて良かったね。」だとか「××チャンみたいになっちゃうよ」だとか言ってしまう事だってある。よほど乳幼児期の不安感が強いのか、とにかく「標準」から逸脱していることに妙に敏感に反応する。人と違うことがそんなに問題あるのだろうか?

 人と違うからこそ存在していて意味があるとは考えられないだろうか?育児に対する底知れない不安。その唯一と言っていいほど頼りに出来る存在が、乳児検診だとするとそんな哀しいことはない。



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他の人と違うということ(1)

2004-10-08 03:16:52 | 
自分や自分の周囲の人たちと異なる考えや行動をとる人のことは、一般に受け入れがたい傾向が人にはどうしてもある。それはある種の社会性の維持から来る必然的な行動なのだが、しかしだからといって常に周囲の人と同じ様な考え方や、同じような行動様式をとっていればいいのかと言えばそうではない。

こんな例がある。社会人ラグビーで新日鉄釜石に並ぶ全国大会8連覇を成し遂げた神戸製鋼。その記念すべき一年目。その前年までキャプテンを勤めた林から平尾がキャプテンを引き継いだ年だ。それまで優秀な選手が集まりながらいつもあと一歩のところで日本一を逃していた神戸製鋼。そのなかで平尾は、なぜ自分たちが日本一になれないかを考えた。その詳細は彼の著書”勝者のシステム”に預けるとして、要するに他のチームと同じようなプレースタイルではだめだという結論に達して、自分のチームの力や技能にあわせて、かつ勝てる為の独自のやり方、まだ他のチームのだれもが考えもしなかったゲームスタイルを考えたことだ。

それまでラグビーといえば、躯の大きなフォワードの選手がスクラムを組んで、相手陣内にできるだけボールを押し込み、ぎりぎりまで来たところでやっと駿足揃いのバックスの選手にボールを渡すというスタイルが殆どだった。また、ボールを相手陣内に大きくゲインする手段としてキックがあるが、それも多用するのが一般的だった。つまり、大型フォワードとキッカーによる、ゆっくりとしたラグビーが主体だった。そうするとどうしても相手チームに"読む"為の時間を与えてしまい、結果として防御力の拮抗した試合になり当時の神戸製鋼にとっては苦しい展開にならざるを得なかった。

神戸製鋼もそれまで、そんな"ラグビーというゲームの当然のセオリー"に基づいたスタイルを当たり前のようにとったチームだった。平尾は、自分たちのチームのフォワードは他のチームに比べて体格や体重の面で優位か?あるいは精度の高いキックができるキッカーはいるのかを冷静に考えた。その結果はNOだ。その代わりに自分自身を筆頭にバックスは駿足ぞろいだ。そこで、いままでのゲームスタイルではない"ボールを速くどんどん回すラグビー"を考え出した。これは平尾自身がバックスプレーヤーだったということもあるが、それまでの"常識"とされていたラグビーのゲームスタイルからは大きく異なるものだった。
それで迎えたシーズンだが、最初はなかなかうまくはいかなかった。しかし最終的な結果は、皆が知るとおり、平尾自身がキャプテンだった3年間、大西キャプテンの3年間、細川キャプテンだった2年間の合計8年間も日本一を続けることになった。

アメリカメジャーリーグで活躍するイチローもそのスウィングがあまりにも異質であったが当時、イチローが所属していたオリックスブルーウェーブの仰木彬監督はそのスウィングを矯正しなかった。言い古されている感もあるが、野茂投手は当時近鉄バファローズに所属していたが、その時も仰木彬監督で、野茂投手のトルネード投法を矯正しなかった。両名ともメジャーでは相変わらず"話題の選手"である。 ただ単に日本から来て活躍しているだけではない評価と注目がなされている。

この例にあるように"異質"であることの重要性とそれを受け入れることができることの重要性とその成果は、”ただなんの疑問もなく守り続けているだけ”よりもはるかに意味をもつのである。

だからといって単に人と違うだけでは何の価値も生まれない。人と違うからこそ光る"独自性"のためには基礎がやはり大切で、その基礎作りのための勤勉さとひたむきさが欠かせない。実績が伴ってこそ、異質が評価されるということ。実績のためになすべきことをしっかり押さえて、自身のもつ異質さ、他人と違う、光るところをしっかり伸ばさなければならない。
基礎のない異質は、単に”下手”としか評されない。”下手”でも売り物になるのはマスコミや視聴者、観客の単なる気まぐれでしかないことをしっかり認識しておかなければならない。


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料理を作る

2004-10-05 00:37:50 | ファミリー
少し前の話になるが、子どもの夏休みの課題の一つに、何か料理を一つ作るというものがあった。うちの子どもが挑戦したのは、ポテトグラタン。料理そのものは至って簡単だったが、本人曰く、「じゃがいもを切るのが難しかった。」とのこと。まあそれなりに出来たのでよかったが。さて、料理を作ることが何故課題になるのだろうかと考えてみると、いやあ、結構いろんな意味があるのである。

まずは、”刃物を持つ”こと。普段はできるだけ触れることを避ける存在だが、注意深く使う道具に触れることは、大きい。
また、”堅さを知る”ことも大きい。初めてジャガイモを包丁で切るという経験を通じて、ほんものの野菜の”堅さ”を知る。
さらには、”作る過程”を経験すること。普段ならば、いつもできあがりしか目の当たりにしない料理だが、自ら動いて”作る為の手順”を実体験を持って知ることは大きな意味がある。
最後に、"作った人の気持ちになる”ことができる。これはもしかしたら一番大切なのかも知れない。料理は”お母さん”、あるいは"お父さん”が作ってくれるモノ。自分たちは食べるだけ。なんていう感覚から、自ら作る立場になるから、どうしても、周囲の人に味わってもらって、"感想”を聴きたくなるものだ。そういうことを通じて、料理を作った人の立場になって考えることや、作ってくれた人に対する感謝の気持ちをもてるとしたら大変な教育効果である。
あとは、”食べ物を大切にする”だとか、"作る工夫を知る”だとかが考えられる。

なんと、こう考えると、家で料理を作ってみるというのは、子どもに対して大変教育効果があるものだと分る。もちろん周囲にきちんと指導してくれる大人が居ないと困るのだが。

男の子だから料理を作らなくても構わないというのは、あまりにも古すぎる考え方だ。前述のような料理効果があるのだから、男子女子区別なく、しっかり体験して考える機会を作って上げることをオススメする。よく考えたら、親子で楽しめて、お金がかからず、というメリットの高い"料理作り”は、教育に非常に良い存在である。



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運動会考

2004-10-04 00:11:52 | ファミリー
いまや国民総カメラマン時代。とでも言えそうなくらい、運動会や学芸会など名前こそいろいろあるが、子どもたちの活躍するすがたを追う親はまるで、スキャンダルを起こした芸能人を追いかけるレポーターのような勢いである。 手に手にビデオカメラや、デジカメをもって、脚立まで用意して一年に一度ぐらいしか使わない望遠レンズを装着したカメラで子どもの姿を狙う。なかなかすさまじいものがある。

かくいう私も小学生の子を持つ親である。例外になるわけではなく、他の親同様に我が子の姿を追いかけているのだが、今日はちょっとちょうしがちがった。子どもが小学六年生ということもあって、もう既に何年も同じような調子でやってきたからか、去年までと比べてけっこうカメラのファインダーを通さないで観た子どもたちの活躍する姿を観てあらためて感動したのだ。

うちの子どもが通っている学校では、学年別にリレー競争がある。全員参加というのがポイント。昔良くあったように、走るのが速い奴を選抜して、クラスで競い合うものとはちょっと違う。足の速いの、遅いの、運動の出来る子、不得手な子みんな一緒だ。もちろん"車いす”の児童も参加する。

自分が小学5年~6年の頃どうだったろうか。運動が不得手な方で、走らせても遅い私は、かけっこ系の競技は極力さけていた。もちろん”徒競走”なんていう強制的に走らされる競技のときなんて、まったく気が乗らないし、”どうせべった(ビリ)だし”と考えてロクに練習もしなかった記憶がある。自分の昔の感情を今の子どもたちにそのままだぶらせる訳にもいかないが、おそらく運動会は憂鬱で、スタート前もドキドキモノなのはおそらく間違いなかろう。

そんなことを考えながら子どもたちがみんな一所懸命になって注ぎ込める限りの力をもって走るこどもたちの姿から伝わる、その「瞬間」の輝き、無心さ、に痛く感動した。同じ組の最初のランナーがスタートのピストルの合図とともに走り出し、バトンを次の走者へと渡す。バトンを受け取ったランナーは、ありったけの力をしぼってグランドを走る。トラック半周、約20秒ほどの戦い。前を走るとなりのクラスの”あいつ”を抜きたいがなかなか差が縮まらない。そうこうしているうちに次ぎのランナーへバトンを渡す。全力疾走したあとの息を整えるが、おもいきりはしって自分の役目をしっかり終えた事に対する、興奮とがまざって、なかなか呼吸が収まらない。

もう30年も前の自らの肉体が受けたその緊張と緩和を蘇らせながら、小学生のみんなが如何にその瞬間を大切にしたかを、かれらの全力疾走から受け取った。大人になる程に、”一所懸命”の中でつかんだ"無”の境地をどこかに置き忘れてしまっているのではないか。

運動会はもちろん小学校での教育カリキュラムの一環であるが、親にとっても大切な教育カリキュラムなのかも知れない。これから運動会が控えている”父兄諸氏”には是非とも、肉眼を通してみる彼ら小学生の私利私欲のない”戦い”を是非とも味わって頂きたい。そしてその「純粋さ」を再確認してほしいと思う。





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一部リーグ、二部リーグ

2004-10-02 22:53:16 | 
仕事での取締役との会話。

会社が上場し、ある企業グループの一員になったのなら、それにふさわしい業績を残さなければならない。個人事業やオーナー企業でなら、話としては極端かもしれないが、業績が低迷しても、一時的な赤字であっても、せいぜい”自己責任”を取るだけでよいが、グループ全体に対する影響を考えなければならない、グループ会社の一員ならば、必ず業績を残すことが求められる。

これはある会議の前にほんの5分ほどの間でなされた会話なのだが、私にとっては大変新鮮な響きをもって心の中に残った。

例えば、こういうのがある。
とことん業績を追求して、もちろん人道的にも正しくなければならないし、ビジネス上のルールを守らなければならないが、それで業績目標を達成できなかったとしたら、それはそれで最前を尽くしたのだから仕方がない。

これは、単独で上場していたり、あるいはオーナー経営者が自分の裁量で判断するならば、正しい面もあるかもしれないが、これはいうなれば”同好会”レベル、あるいは”二部リーグ"レベルの戦い方というべきだろう。

一部リーグとは、とことん結果に拘る集団でなければならない。
とことん結果にこだわり、何が何でも目標を達成する。それにはルール内でできることはすべてやる。そういう戦い方をしなければならない。

一部リーグ。例えばバレーボールやバスケット、ラグビーなどがあるが、結果として優勝の二文字を手にするのは1チームしかないが、それが現実だが、ビジネスの世界では、複数が”優勝”できる。だからこそ結果にこだわり、それを追求し続ける、その為に戦い続けるのだ。途中で、”まあこのへんでええか”と思った瞬間に、終わりなのだ。それではもはや一部リーグで戦う資格は無いし、自ら放棄したに等しい。

私自身、新鮮な響きをもって、、、、と書いたとおり、いままでは"同好会”か、”二部リーグ"的な発想だった。ビジネスでは、なかなかそのあたりが見えないのだが、これらをしっかり意識して結果に拘る戦い方を身につけたい。

ビジネスの世界での一部リーグ、あるいはトップリーグで戦い続ける為に。


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