joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

にぎやか

2006年10月05日 | 見たこと感じたこと



私の家の近くには団地がたくさんあります。子供の頃に遊んでいた友達の多くは団地に住んでいました。今思えば、若い夫婦の家族が住むのにちょうどいい公団住宅が密集していたということなのでしょう。

おそらくその友達たちはすでに自立してどこかに行き、団地には老いた夫婦だけが残っているのかもしれません。団地の近くのショッピングセンターは、私が子供の頃は小学生や中学生の溜まり場でしたが、今では寂れ、多くの店が閉まり、活気はなくなり、かろうじて食品スーパーだけが残っています。

団地にもたくさんのヒビが入っています。

その近くを午後に歩いていると、人気も少なく、今日は曇り空で小雨も降っていたので、しーんとしている感じでした。

しかし、よく感覚を研ぎ澄ますと、団地の近くに植えられてある、あるいはんよきにょきと生えてきている植物はたくさんあり、緑が茂っています。静かな午後にその側を歩くと、その緑の多さに気づき、とてもにぎやかな感じがしました。


涼風

『最終講義 分裂病私見』 中井久夫(著) 2

2006年10月05日 | Book

「『最終講義 分裂病私見』 中井久夫(著) 1」からの続き


精神障害における“自己”

ここで、統合失調症と強迫神経症との違いを筆者は指摘します。

統合失調症と強迫神経症が類似しているのは、強迫性には「不安に対して意識性を高めて対抗しようとする」側面がある点です(徹底的な確認など)。

しかし強迫性ではこの「意識性の高まり」は決して限界を突破せず、つまり高まりすぎて意識がもはや機能しなくなるという事態には至らず、高まりの上限でストップして、痙攣的に“確認”を反復させます(45頁)。

それに対し、統合失調症とは、強迫性と同様に認識の“統合”を追求するのですが、その追及が度を越し、ついに認識システムが“失調”する状態です。「意識の高まり」が限界を突破してしまうわけです。

この限界を突破してしまったときに、たとえば睡眠障害などが起き、睡眠や夢のように自己が「ゆとり」をもって思考の働きを眺めるということが不可能になります。

強迫性においては、「自分をモニターしている自分」(46頁)という再帰性のシステムが、自動反復的に同じ経路をグルグル回っている状態(あたかもタイヤがぬかるみでスリップするように)だとすれば、統合失調症は、もはやこの「自分をモニターしている自分」というものが消え(タイヤが外れるように)、“自己”を正常に認識できなくなった状態を指します。

アメリカの精神科医サリヴァンは、統合失調症以外の精神障害は「セルフの偏った作動」であるが、統合失調症は「セルフ自体の崩壊」だと言ったそうです(54頁)。

このような「セルフ・システム」の機能の麻痺により、患者さんは自他・内外の区別が不明確になります。それは、「意識の天井が開いて青天井となり無限の高みに引き上げられる」または「奈落の底に墜落」(53頁)などと表現されます。二つは正反対ですが、共通しているのは、もはや地に足をつけて“自己”“他者”“世界”というものを認識することが不可能になり、訳の分からないカオスに投げ込まれたようなものでしょうか。

著者によれば、“自己”とは「意識の統一性と共時的・通時的な単一性との妨げになる“解離されるべきもの”を意識の外へ外へ汲み出す」ことによって“自己”を統一したものとして認識できるのですが、統合失調症では“自己”とそれ以外のものを識別する機能が麻痺しているので、この“解離されるべきもの”が一挙に意識の中に奔入してきます(54頁)。著者はこのときの状態を次のように描写します。

「解離された“馴染みのない”観念が出没し、意識はそれらに脈絡をつけ、まとめようとします。そのために意識性を高めようとします。つまり超覚醒状態に入ります。するとノイズを意味あるものとして拾ったり、些細な知覚を重大な事態の予兆として受け取ったりします。」(56頁)。

このときに患者は、強烈な《恐怖》を体験します。


慢性がもたらす困難

著者によれば、統合失調症における幻覚・妄想は、この恐怖を緩和させるために「生命」が逃げ込んでいる場だということです(58頁)。

恐怖とは、対象を明確に知りえていないからこそ起こる体験です(例えば幽霊や死など)。それに対し幻覚・妄想は、意識に対象を与えます。それにより恐怖の体験は和らぎます。思考システムが失調している中で、恐怖に身体が侵されている状況で、その恐怖をやわらげるために、幻覚・妄想を作り出しているということです。思考の失調の中でも、なんとか生命が生き延びるために、最後の手段=自然治癒力を繰り出しているのかもしれません。幻覚・妄想の方が、極度に恐怖に支配された身体からすれば、「ラク」だということです。

また、だからこそ、これらの幻覚・妄想を手放すことは、患者にとってはひじょうに怖ろしいことです。それは、また思考の混乱とカオスの中に投げ込まれることを意味するからです。ここに幻覚・妄想から抜けることの難しさがあると著者は言います(59頁)。

もっとも、この幻覚・妄想も、本来は“解離されるべきもの”が意識に現れているわけで、それゆえ“自己”という意識あるいは精神の統一性を妨げている意味で、患者にとって脅威であり、そこにもまた恐怖は生じています(60頁)。

こうみると、幻覚・妄想とは、少しは恐怖に慣れた状態だと言えるでしょうか。この状態は、しかし症状が重い時期に変わりはないので、いずれにせよ山なりの図で言えば頂上一体の位置にあります。頂上で、足場が揺らいでいる状況で、風に吹かれながらも、一応狭いながらも頂上という足場を得ているので、そこにうずくまって動かない状態です。動こうにも遭難しているので動けないし、たとえ不安定でも頂上にいればなんとか生きていけます。少なくとも本人はそう思い込んでいます。実際は食料が尽きかけ、天候は悪化しているかもしれませんが。

それに対し、頂上から降りることは危険を伴います。その過程では、幻覚・妄想を手放して、自分は世界をちゃんとは認識していないことを自覚する必要があります。“解離されるべきもの”が侵入しているカオティックな世界像が現れていても、その世界像を直視し、自分の思考システムが失調している事実を受け入れる必要があります。そのときはまさに、幻覚・妄想によってなんとか不安定ながらも維持していた偽の“自己”像を直視し、それが偽であることを自覚しなければなりません。自分が真実であると思い込んでいた世界が偽の世界なのですから、その際には言いようのない混乱と恐怖が訪れます。しかしその混乱を受け入れ、自分の認識システムが失調していることを受け入れなければ、それを正常に戻す作業に入ることもできません。

しかし、頂上から降りることができなければ、頂上にいて今は“何とかやっている”「統合失調症」君は、しかし頂上にずっといるため体力は疲労し、食料も少なくなり、動けなくなり、弱ってきます。また同時に、症状を治そうとする「回復」さんも、なかなか降りてこない「統合失調症」君を説得する気力を失っていきます。

「統合失調症」君も「回復」さんも疲れてしまったとき、そこには病気と回復とのせめぎ合いはもはや見られず、まるで「素人同士がだらだらと相撲を続けている」ような弱い力の釣り合いとなります(71頁)。

中井さんは、病気君と回復さんがお互い強い力でせめぎあっている時は、強い緊張状態であり、その時にはなんらかのきっかけでどちらかに針が振れやすくなり、場合によっては事態が好転する場合があるということです。逆に、弱い緊張状態で釣り合ってしまっているときは、症状が慢性的になり、回復し難くなります。

治療者の一つの役割は、この慢性的な状態を再度賦活させるところにあるのかもしれません。カウンセリングなどの特別な空間に意義があるとすれば、一見慢性的な状態にはまり込んだように見える患者を微細に見つめ、一見同じところをグルグル回っているように見える患者の心理の中で、それでもその堂々巡りから抜け出して回復へ向かおうとする動きを見つけるところにあると言えるしょうか。中井さんは慢性の統合失調症を看る治療者に次のようにアドバイスしています。

「慢性患者を慢性患者とみなすのを止めたらいろいろなものが見えてきて離脱への萌芽はその中に混っている。・・・無理をしてでも『慢性患者』というラベルを心の中で強引に剥がすのです。するといろいろな緩急が見えてきます。風の呼吸のような。
 実際、慢性分裂病状態は、睡眠障害と夢活動と身体化と、そして対人関係や日常生活の試みや思わぬ事件がからみあって展開する、きわめて複雑な過程です。慢性分裂病状態は絶えず揺らいでいます。その中に離脱のチャンスが、明滅する灯のように見え隠れしています」(76頁)。

この回復の動きは、慢性という仮の安定状態から抜け出して、混乱に満ちた自分の現実に再度向き合おうとする患者の動きです。それゆえ、そこには勇気と不安が入り混じった気持ちがあります。治療者の役割は、その不安を和らげ、勇気を出せるように導くことかもしれません。

このような慢性状態に関する考察を見ると、これは統合失調症に限らず、多くの心理的問題に共通する傾向のように思えます。慢性化は、たしかに本人にとって具合が悪いように感じられるのですが、同時に“それでもなんとなくやっていけるのでは”という希望を抱かせます。しかし、少なくない場合において、その楽観は打ち砕かれ、先延ばしにしていた問題に直面します。たとえば、銀行のバブル期の貸し出し超過のように。国家財政にも同じことが言えるでしょうか。

不確実の時代と統合失調症


さて、上でも記したように、中井さんは『分裂病と人類』において、この統合失調症を説明する際に、以前にこれと執着気質を対置させていました。私は精神医学には詳しくないのですが、印象では、この「執着気質」は強迫神経症と等値されるものだと思います。

統合失調症が中井さんの言うように“セルフ”の統一を追求しすぎて、世界のあらゆる兆候に意味づけ・因果連関による説明をつけようとする努力であるとするなら、それはどういう点で、執着気質と異なるでしょうか。

執着気質は「復興の論理」であり、“取り返しをつけようとする”態度であり、新しいものを見出すのではなく、元となる状態を想定して、それに近づけようとする努力とされています。

その“取り返しをつける”という想念に固執するとき、観念で描いた状態を人は何としてでも達成しようとします。そこには、“こうあるべき”という「世間」から受けた観念を追及する努力があります。言わば、与えられた課題を果たそうとする努力です。アイデンティティが与えられた課題と同一化してしまっているため、本来の“自己”が置き去りにされ、「世間」「社会」の課題が本人の思考を支配している状態と言えます(この「本来の」という言い方に拒否反応を持つ人もいるかもしれませんが)。しかし本人は、自分が“自己”を見失っているとは思っていません。「世間」「社会」と“自己”との区別ができず、「世間」「社会」のものである観念を“自己”と思い込んでしまっているのです。

この執着気質の場合、だからこそ、「世間」「社会」の側が現在のように混乱の状態に入ると、拠るべき観念が不確かであることが暴露されてしまい、執着気質者は拠りかかるものがなくなり、アイデンティティの危機に陥ります。

それに対し統合失調症は、執着気質者と異なり、世界の微細な変化を察知し、複雑な動きを認知します。世界からの情報を非常に細かく差異化して受け取るので、情報が多く複雑になります。この多く複雑な情報を分類して、“自己”と“他”とを選り分けることでアイデンティティを確立できるのですが、この“自己”の確立の際に、そのアイデンティティの特徴を社会から厳しく規定されてしまうような時代であると、情報の細かな選り分けができなくなります。

もともとあらゆる兆候をつかんでしまうので、インプットされる情報量は増えるのですが、その選り分けも本来は自分ですることで多量の情報を扱えるのに、アイデンティティのあり方を決められると、自分が行なおうとする柔軟な情報の選り分け=“自己”と“他”との区別ができなくなり、多量の情報の扱い方が分からなくなり、すべての情報が思考に入り込んでしまう。

しかし、現在のように時代が混乱し、どういう生き方が正しいのかが分からなくなると、社会からの強制がゆるやかになり、統合失調症親和者は、自分が吸収した情報を自由に自分で選り分け、自分に合った仕方でアイデンティティを確立することができます。それゆえに、新しい時代に適合した新しい人間のあり方を提示できる可能性を持つと言えるでしょうか。

僕自身は執着気質に近いように思いますし、僕の年代はそういう人が多いでしょう。学生時代にはまだ「いい学校に入り、いい組織に入ることが人生の成功だ」という観念が社会を支配していたからです。

しかし、おそらく優良企業への若者の執着という傾向はこれからも残ると思いますが、その執着を手放すことは、より若い世代にとってはずっと簡単になるのかもしれません。

「ニート」「フリーター」「ひきこもり」という行為類型を示す若者の出身階層は低所得世帯だと指摘する人もいます。それは本当かもしれません。これらの行為類型が貧困意識と過労という社会意識への抵抗だとすれば、それらの意識をよりダイレクトに態度で表現し生きることに疲れる人は低所得層に多いと考えられるし、そういう人に囲まれて育った人が「ひきこもる」確率が高くなるとも想像できます。

ただ、それとはべつに、「いい学校に入り、いい組織に入る」という規範を軽やかに手放すことができる人が増えているとすれば、単なる経済状態の函数とは言えない、これまでとは異なる倫理が生れているのだと思います。その倫理の担い手は、統合失調症親和者だと言うのは、図式的な議論でしょうか。


参考:「統合失調症はどんな病気?」 『高知県立精神保健福祉センター ~精神保健福祉について~』

   『看護のための精神医学』 中井久夫・山口直彦(著)

   加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』中井久夫(著) 2

   加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』中井久夫(著) 1

   『西欧精神医学背景史』 中井久夫(著)

   「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著) 2

   「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著) 1

『最終講義 分裂病私見』 中井久夫(著) 1

2006年10月05日 | Book


精神科医の中井久夫さんが著した『最終講義 分裂病私見』(1998)を読みました。著者が大学を退官するときに行なった講義だということです。

「あとがき」で1934年生まれの著者は、自分の世代の課題は「分裂病」であり、それを飛び越して何かをするということは時代と社会の要請する優先順位を無視することだったと述べています。著者が医師として活躍した時代はそのまま戦後日本の経済成長期に当てはまることは、「分裂病」すなわち統合失調症と製造業中心の経済成長期との相関を表しているでしょうか。

統合失調症親和者の微分的認知

『分裂病と人類』の中で著者は、「分裂病」=統合失調症の気質を「微分的認知」と表現しました。

微分的認知とは狩猟社会で発達した能力であり、それは「変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられる」能力です。そのため微分的認知の能力は、確実性の少ない荒野の中で獲物を認知し・また肉食動物の攻撃から身を守るために、視界の中の僅かな動き・音・臭いから動物の存在を察知します。

このような、世界のかすかな兆候から将来を予測する能力は、しかし戦後の経済成長期の社会に適応することは困難でした。

製造業中心の大量生産・大量消費社会において求められる能力は、「三種の神器」に代表されるような画一的な製品を生産・販売することであり、そこで求められるのは数の“積み重ね”です。求められるのは決められた課題を達成する地道さであり、正確さの追求です。

そのように確実性を強迫的に追求する時代では、かすかな兆候から動きを予測する微分的認知の機能は、所与となる規則的なデータから完璧な正解・結果を出力しようとするため、あらゆる動き=データが物事の原因となるという妄想を生み出します。

社会がカオティックであるとき、求められるのは厳密さの手前にある解答であり、“現実”そのものへの対応です。そのため微分的認知は、わずかな動きからある程度の答えを予測することで、現実的な解決策を提示できました。

しかし社会の動きを完璧に予測できるはずだという圧力が加えられていた戦後の経済成長期では、求められるのは“完璧”な答えです。そのような状況下では、微分的認知は、現実的・対応的な答えではなく厳密な“答え”を出そうとするあまり、あらゆるデータを因果的に結びつける妄想を抱きます。

こうして、因果的な厳密さと確実性を求める時代では、あらゆる兆候から答えを導くという能力が仇となり、「分裂病」親和者は統合失調症を発症させます。

(このあたりの中井さんの議論は、「「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」中井久夫(著)」“joy”で紹介しました)


ただ“一般”の世界にいる私から見れば、統合失調症というのは必ずしも馴染みのある病気ではありません。それは、統合失調症というものの極端な症状しか私たちは知らないからかもしれません(例えば映画
『ビューティフル・マインド』で見られるような)。いずれにせよ、患者さんと実際に関わっているわけでもなく、身近にその病気を発症させた知り合いがいるわけでもない者からすれば、統合失調症が発症させる“妄想”というものは想像し難いものがあります。

むしろ多くの人、とりわけおそらく日本の人にとっては、中井さんが「分裂病」=統合失調症に対置させる「執着気質」の方が馴染み深いのではないでしょうか。中井さんは「執着気質の歴史的背景」(『分裂病と人類』所収)という論文で、この「執着気質」を「復興の論理」と位置づけ、規範と正確性を尊重するこの気質が戦後の経済成長を支えた事情を描写しています。

現代は、このような規範と正確性への執着では対応し得ないカオティックな時代に移行していますから、そのため多くの執着気質者は、自分の受けた教育(大企業・官庁などに入り、決められたことを正確にこなせば幸せになれる等)と時代とのずれに悩み、“鬱”になっています。

それに対応して、金融が産業の中心となり、また消費者の趣向がつねに変化する現代では、一瞬の経済の動きから先を読む能力がより求められるため、分裂気質者が以前より生きやすい時代となっており、ある臨床心理士の方の話では、分裂病は以前よりもその発症数が減っているそうです(もっとも、これには薬の発展もあるのでしょうが)。


心の自由度

ともかく、この『最終講義 分裂病私見』は、「分裂病」=統合失調症が最大の課題であった時代にそれに取り組んだ精神科医が、その病気の特性と、発症から回復までのプロセスについてコンパクトに語ったものだと思います。

まず発病の急性期(急に症状を発して病気の進み方が速いこと)に見られる特徴として、「心の自由度」が非常に低いこと(p.18)。それは例えば、絵画療法において「自由に描いてください」と言われても、「自由というのが分からない」と答える患者さんもいたそうです。

著者は、このような「心の自由度」の低さ、例えば診察の場面で絵画を自由に描けないことの意味を、「絵画療法の場を共有できない」=「一般化すれば対人関係の場を他者と統合しにくい」「接点というか折り合いをみつけにくい」ことの表れと捉えます(p.18)。

これは、あらかじめ患者さんに絵画療法を断る自由を与えておいて、患者さん自身が絵を書くことに同意したにもかかわらず、絵を描けないときのことです。

このような自由度の低さは、統合失調症の方が、世界のあらゆる兆候を意地になってでも関連付けて因果的に説明する傾向とつながっているのだと思います。著者は急性期の患者さんのつらさを次のように想像します。すなわち、「自由度」が低いため、世界で起こるすべての出来事や内面での印象や観念や思考の動きを“偶然”とは思えず、すべてが恐ろしい“必然”になってしまうのです。あたかも、世界全体が自分に襲いかかっているような「世界の不条理」です(p.23)。

「心の自由度」の低さがこのようにすべてを関連づける妄想へとつながります。逆に言えば、統合失調症(無理にでもすべてを関連づけて人格の統合を試みる症状)の回復は、“偶然”“ハプニング”といったものが存在すると思うことができる「ゆとり」があるかないかがキーポイントになると言えます。

この統合失調症の回復に関して、著者は面白い比喩を一つ挙げています。

統合失調症に罹る、すなわち「心の自由度」を失うことは、例えば山での遭難に例えられます。

先に統合失調症の患者さんは面接者と場を共有して自由に絵を描くことが困難になる、すなわち他者と同じ場にいて心のゆとりを保つことが困難になると述べました。

同じように、山で遭難した場合、パーティ内部の人間間の対立により「ゆとり」がなくなり、「ハプニング」を受け入れる余裕を失うそうです。つまり「ゆとり」とは、対人関係の状態によってその有無を測ることができるということです(p.25)。

統合失調症との闘いは、道を見失って遭難することに相当します。「ゆとり」を失い、他人と場を共有することが難しくなり、すべての出来事が自分の存在を脅かすような妄想に囚われます。著者は病気になる人のことを、「遭難しかけた時に山頂のほうに向かって避難しようとする人」と比喩します。患者さんは、病が始まったときにはすでに山頂におり、しかも一人で下りることができません。

「登りに力を使い果たし、疲れはてて、道は尽き、目標を見失って、外部の目からは幻の山頂といわばいえ、当人にとっては四方が断崖の絶壁にいるのです」(26頁)。

これに対して回復とは、山を下りる時に似ており、治療とは山岳遭難救助だとのことです。

とても分かりやすい比喩だし、これは統合失調症だけではなく、他の多くの心の病にも当てはまりそうな気がします。

治療が山岳遭難救助であれば、治療者は遭難者と同様に山を登る=病と闘うプロセスを理解する必要があります。自分で追体験できるだけの困難な経験の蓄積、または想像力を有す必要があると言えるかもしれません。遭難者以上に、病に罹ったときの心的状態を知っており、その状態を知りながら、同時に回復に至るプロセス=山を下りる道を知っている必要があります。

遭難者が山から下りれないからといって、「下りる気がないからだ」と言って叱咤して突き飛ばしたり、自分には関係ないとして一人でさっさと下りてしまったりしては、救助できません。救助者は患者の手を握りながら、山の下りですから、一歩一歩確かめながら下りる必要があります。山は、登るときよりも、下りるときのほうが神経と足腰の筋肉を使います。

夢の役割

このような統合失調症の回復は、睡眠障害が緩和されるときにその回復が始まっていることがわかるそうです。ただこの回復期に見る患者さんの夢は、「最初は不定形のヘドロのような悪夢、それから怪物などが登場する悪夢、そして人物が登場する悪夢」へと変わって行き、その後次第に夢が「淡く」なるそうです。またそれにしたがって、眠りが深く、めざめ心地がよくなるといいます(27頁)。

ここで中井さんは、少し話の脇道にそれて、「夢の健康度」について次のように私見を述べています。著者によれば、健康な夢とは、「生々しい夢でも朝目覚めると一、二分以内に、いやたいていは数秒で内容が急に色あせ単純化され、言葉に仕立て直されてストーリーが生れ、それから、おおよそ二時間以内にストーリーがあらすじだけになり、ほぼ正午までにテーマあるいは表題だけになるもの」だということです。(30頁)

また、先に統合失調症の患者さんはすべての世界の兆候に無理にでも関連づける傾向を紹介しましたが、その反対である「自由な」一貫性のない夢は、健康度の高い夢になるそうです。例えば「断崖に追いつめられたかと思うと、場面が一瞬にいちめんの花園になる」など、場面とストーリーがガラっと変わるような夢ですね。筆者によれば、統合失調症の患者さんにはこれがとても少ないということです。

夢とは、

 1 前日に見聞きしたこと
 2 目覚めそうなときに見聞きしていること
 3 こだわっているために消化されず、日常でも無意識を通じて私たちの思考と行動に影響を及ぼしている想念

の三つから成り立っているという話を別のところで聞いたことがあります。1と2が夢に現れた場合は、たとえそれが象徴の形を採っていても、なぜ夢に現れたかを推測するのが比較的容易です。しかし3の場合は、普段わたしたちが気づいていない無意識の想念が、夢として現れていることになります。

統合失調症の患者さんのように、夢の中で場面展開が激しく《ない》ということは、その人の頭ではつねに一貫した論理が頭の動きを捕らえているということであり、それだけやはり思考の「自由度」「ゆとり」を日常において持っていないということになります。

逆に言えば、私たちの精神は、一つの論理に囚われていず、偶然やハプニングをそれとして流すことができるほど、健康と言えるでしょうか。中井さんは次のように言います。

「ひょっとすると、実際の人生でも時々ハプニングや飛躍があるから成り立っているのかもしれません。そういうものがないと必ず暗いほうに行ってしまうのではないかと思います。一貫した人生がいけないといっているのではありません。花が好きで好きで植物学者として生涯を全うした人などはすばらしいと思います。しかし、無理に一貫させるというのはどうでしょう。特に病気というのは『人生の仕切り直し」の機会ではありませんか』(31頁)。


臨界期の身体症状

ともかく、回復期には睡眠が次第に深く、心地よくなります。著者が言っているわけではありませんが、それはおそらく、思考に柔軟度が生まれるほど、意識は“今ここ”に向かうようになり、身体感覚が思考から解放されるからじゃないでしょうか。身体の感じている疲労を、思考の邪魔を受けずに、自己がそのまま感じることができ、眠りが深くなるのでしょうか。

このように意識が、現実から解離した論理を追い求めずに、その時々に身体や脳が体験していることに微細に注意が向く(「意識の縁辺にあることを意識する」)ようになることが回復期の特徴のようです(「やっぱりいやだなぁ」とか「これはちょっとちがうのではないか」など)。

またそのように意識の方向づけが柔軟になるに従い、著者は、患者さんは「パラタクシス」的な思考の秩序を受け入れることができると言います。つまり、すべてを因果的に関連づけるのではなく、「せんせいも家へ帰ればただの人」などのように、・・・だけど~というように思考することができる、と(35頁)。

また回復期は身体が思考の支配から解放される時期ですから、身体症状が現れる時期だとも言われています。逆に言えば、急性期には身体症状がなさ過ぎるのだ、とも(37頁)。

このことは、見方を変えれば、統合失調症の発症に向かう過程で、何らかの身体の症状が出れば、発症を抑えられる可能性があることを示しています。

統合失調症では、発病する時期と回復する時期の両方で身体病が出るそうです。中井さんはこの時期を「発病時臨界期」と「回復時臨界期」と呼んでいますが(41頁)、統合失調症は本来はなんらかの身体病を伴うものなのでしょう。しかし、「ゆとり」のなくなった思考が身体までも支配してしまうと、身体病は後景に退き、精神の病気だけが突出するのかもしれません。

ちょうど山なりの図の頂上近くが統合失調症の重い時期だとすると、山を上がる前と下りるところに線が引いてあり、その線上付近だと身体病が出ると言えるでしょうか。

「臨界期」において身体病が出ている間は、まだ思考よりも身体の感覚が勝っている状態ですから、精神の病を抑えている状態なのかもしれません。中井さんは、この「臨界期」は寺の出入口を守る仁王様みたいなもので、急性の統合失調症という苦しい状態が起こらないように、身体疾患で食い止めようとしているのではないかと述べています(43頁)。

このことは、人間には、統合失調症に至らないように何らかのエネルギーを入力するシステムが備わっているという推測を導きます。そのエネルギー入力が例えば身体病として現れるわけですが、ともかく身体の感覚が思考よりも勝っている状態を作り出すシステムと言えます。中井さんはそのシステムとして考えられるものの候補とは、「発病の時に最後のあがきのように乱れた活動を示すもの」、また「回復の折にまっさきに現れるもの」であり、それを順に示すと、「睡眠」「夢活動」「心身症」「意識障害」「死」だと述べます。後に行くに従い、有害性が増加します。


「『最終講義 分裂病私見』 中井久夫(著) 2」に続く