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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

「啓蒙主義の宗教的起源」 H.R.トレーヴァー=ローパー(著)

2006年05月21日 | Book


以前、イギリスの歴史学者H.R.トレーヴァー=ローパーの「宗教・宗教改革・社会変動」という論文を紹介しましたが、この論文と並んで『宗教改革と社会変動』に収められている「啓蒙主義の宗教的起源」という論文を読みました。単行本で60頁弱ほどの論文。

私がこの本を読んでいるのは、中井久夫さんの『分裂病と人類』という著書で、ピューリタニズムと精神医学の脱呪術化との関連を論じるさいにこの本を参考文献に挙げているからです。

読んでみると、中井さんが(ヴェーバーと同様に)ピューリタニズムと思考・方法の世俗化・技術化・合理化をわりと素朴に結び付けていたのに対し、トレーヴァー=ローパーはこの本で、「ピューリタニズム」という概念で近代化をすべて語り尽くそうとする当時(1970年ごろ)の知識人の傾向を戒めていることが分かります。

「宗教・宗教改革・社会変動」では、経済的発展とピューリタニズムとの関連はそれほど一義的ではなく、むしろ一つの社会運動になる以前のローマ教会への反抗の精神が企業家の間に広がっていたことに注目し、それは必ずしもピューリタニズムに限定されるものではないと指摘します。

この論文「啓蒙主義の宗教的起源」でも同じく著者は、近代啓蒙主義がピューリタニズムによって生まれたと考える通説を批判し、むしろピューリタニズムは反宗教改革と同じく強烈な権威主義により人民の自由を抑圧したのであり、啓蒙主義はローマ教会と主流派ピューリタニズム・カルヴィニズムへの抵抗によって生まれたことを指摘しています。

僕がこうした議論に注目するのは、やはりヴェーバーが切り開いた経済的エートスという問題を考えたいんでしょうね。ヴェーバーの議論が歴史的検証に耐えられないとしても、彼の問題設定はいまだに多くの人が共有しています。

現在の社会も経済的領域が社会全体に与えるインパクトに振り回され続けていることは事実です。ドラッカーの言うように「自由は社会の中心的領域確保されてこそ初めて意味をなしうる」のだとしたら、重要なのは投票の自由(だけ)ではなく、労働世界における「自由」です。その「自由」の意味をどうとらえるかというのは議論が必要だとしても。

この論文は啓蒙主義の宗教的起源を扱っていますが、トレーヴァー=ローパーは彼の分析するその起源と企業家のエートスとの関連を想定しているのだと思います。

端的に言えば上でも言ったようにトレーヴァー=ローパーは啓蒙主義の起源をピューリタニズムに求めることに疑問を呈しています。彼はピューリタンの代表者の文献を見ることではなく、むしろ社会勢力としてのピューリタンを見て、その権威主義と非寛容を指摘します。

まず著者によれば、16・17世紀の宗教改革に伴ったヨーロッパの内戦状態(「へルール族やヴァンダル族やフン族さえ一度も知らなかった野蛮」)が啓蒙思想を生んだわけではないこと。むしろ「ヨーロッパの旧い正統思想を打ち倒した新しい思想」は、「平和の温かさ、自由で思いやりのある国際的討論の物静かなやりとりのなか」で生まれたこと。それに対し、戦争の熱狂や革命の緊張のような状況下では、「人々は因習的防衛的姿勢をとり古くさいスローガンを繰り返すだけ」だったこと(83頁)。

では、その「戦争の熱狂や革命の緊張」を生み出したピューリタニズム・カルヴィニズムは啓蒙思想とどう関係するのかorしないのか。

著者は、「カルヴィニズム」という言葉で同一普遍の実体を指すことはできず、それは発生から一定の勢力を得るまでに性格の変化を被っており、また欧州各地に伝播する過程でも土地々々で異なる役割を担っていたという、当たり前の事実に目を向けます。

それによれば、カルヴァン派の創始者たち(カルヴァン、ベーズ、ブキャナン、ノックスなど)の著作には冷酷さとともに、「英雄性」「文学的迫力」「力強い知性」が認められました。

それに対し彼らの弟子達である17世紀カルヴァン派の「大学者」たちに見出せる性格とは、冷酷とともに「貧弱」「不寛容で偏狭な信仰者」「小心な喧し屋」「臆病で保守的で空疎な教義の防衛者」「新しい思想とかリベラルな思想とかの一切に対する抑圧者」「査問官」「魔女処刑執行人」などでした。

このカルヴァン派の小心な権威主義者達の生息した場所としてはオランダ(リヴェートゥス、フート)スコットランド(ベイリー、ラザフォード)フランス(デマレ、ジュリュー) スイス(フランソワ・トゥレッティニ) アメリカ(コットン・メザー)などがあり(カッコ内は代表的なカルヴァン主義者)、そのどれもが初期啓蒙思想の中心地として言及されてきた場所です。ここからトレヴァー=ローパーは、啓蒙思想とは、カルヴァン派が生み出したのではなく、むしろ「カルヴァン派教会の支配を打ち破ろうとしたり、そこから逃れようとした異端―真正カルヴァン派ならできれば焚刑にしたかった異端から生まれた」(86頁)と推測します。

例えばオランダでは、リベラルな思想は真正カルヴァン派ではなく、カルヴァン派への対抗の中でアルミニウス派ソッツィーニ派から生まれたとされます。

またイングランドでも同様の真正カルヴァン派とアルミニウス派との闘争が、長老派と独立派との戦いという形で起きました。独立派としてのアルミニウス派は「自由意志、宗教的寛容、教会に対する俗人の統制」を信じており、彼らの長老派に対する勝利は「聖職者に対する俗人の勝利」を意味しました。

同じ時代にスコットランドでも同様の闘争が起きるが、ここではカルヴァン派は一時全面的に勝利し、アルミニウス派を駆逐する。イングランドでの王政復古・国教のスコットランドへの普及に対する防衛のためにカルヴァン派は一枚岩となり固まる。しかしイングランドとの統一によりスコットランドには平和が訪れ、カルヴァン派の団結は弛緩する。そして「1712年英国のトーリーのつくったパトロニジ法によりスコットランド教会の聖職者指名権は教養ある俗人のパトロニジに委ねられ、教会はついに17世紀にみられた偏狭な信者から解放される保証をうる」(97頁)。スコットランド啓蒙はここから生まれました。

フランスではユグノーがその自律性を失うとともにプロテスタンティズムの聖職者は「偏狭で頑迷」「文芸を憎悪する者」となります。ここでは俗人は聖職者への服従を余儀なくされ、一部のアルミニウス派が残るにすぎませんでした。しかしこの異端としてのアルミニウス派は、ナントの勅令の廃止をきっかけに国外に移住せざるをえなくなることで、オランダのアルミニウス派・ソッツィーニ派やイギリスの広教派latitudinarianと交わるようになり、かえって真正カルヴァン派が失った独立の精神を再発見することになります(92頁)。

スイスではジュネーヴとローザンヌにおいて真正カルヴァン主義とアルミニウス派との闘いが行われ、異なる過程を辿りながら「知的には」アルミニウス派・ソッツィーニ派の思想が浸透します。

このように真正カルヴァン主義とアルミニウス派という対立軸でみるとき、例えばイギリスの清教徒革命も通説とは違った形で見えてきます。

長老派と独立派という比較では、わたしたちはイングランド国王を処刑した独立派を急進的・狂信的革命派と見なしてしまいます。

しかし実際には独立派はアルミニウス派の勢力であり、より穏健な形で教会を国に定着させ、俗人のコントロール下に置こうとする運動でした。その姿勢は長老派よりも英国国教会派の王党派と近いものだったといいます。独立教会主義とは「以前英国国教会派に実現されていたリベラルな伝統を新しい政治的基礎の上に継承するもの」であり、そのためには狂信的・非寛容なカルヴァン主義を代表する長老派に対抗しなければなりませんでした(103頁)。

トレバー=ローパーは、このアルミニウス派が見せた寛容・俗人による教会のコントロール・自由といった思想の特徴は決してカルヴァンから導かれたものではなく、それ独自の源流を持つものであり、したがって啓蒙主義がピューリタニズム・宗教改革によって生まれたとする説を斥けようとします。彼によれば「カルヴィニズムは寛容ではなく、根本主義的スコラ主義的であり決定論をとるのに対し、エラスムス主義は寛容であり、懐疑的神秘主義的であり、リベラル」でした(107頁)。

では外部にはなぜこの二つの派が同じカルヴィニズムとみられ、アルミニウス派はその中での異端とみなされたのかという問いが出てきます。それに対して著者は、二つはカトリック教会というより動かしがたい権威の前では同じ抵抗派であり、エラスムスの流れを汲むアルミニウス派は、自己の保存のために一時的にカルヴァン主義の下に逃げ込んだと指摘します。

他者への非寛容という性格を持ちながらも、「聖書に還れ」という看板を掲げる以上は、アルミニウス派の思想はカルヴァン主義に同化しやすかったというわけです。カトリックの弾圧から逃れるには、より大きな抵抗勢力の下に同化することが得策でした。著者は、ここで二つの異なった思想が同じ傘の下に緊張関係を保ちながら同居していたと言います。

「カルヴィニズムそのものはエラスムス的な根をもっていたのである。ルター主義とは違ってカルヴィニズムは改革された可視的原始的教会を前提していたし、また厳密で学者的学問的でもあった。最初それはエラスムス主義と同じ地域の同じ階級の人々―ラテン・ヨーロッパの教養ある官吏と商人階級に訴えていた。カルヴィニズムに服したときでもエラスムス主義者たちは、カルヴィニズムを自分達の運動から別個に発展したものというよりむしろ共通の起源をもつものとみていた」(107頁)。

このようなエラスムス派の思惑から彼らのカルヴァン派への同化がおこります。「1550年代ローマ法王庁が盲目的反動の立場をとったように思われ、エラスムスの全著作が禁書目録に載せられたとき、ヨーロッパのヒューマニストたちは左翼に移行せざるをえなかった。いかに代償が高かろうが、自分達の哲学がいくらかでも保持できるように庇護してくれそうな唯一の組織に身を委ねざるをえなかった」(108頁)。

しかし著者によれば、この同化は結局外面的なものにとどまり、真の同化・融合が起こったわけではないと言います。「教義に鼓舞された都市職人層にその現実的社会的力をおいていた」カルヴィニズムの中の「二つの知的要素」―武力を統制する牧師(カルヴァン派)と単に引きつけられたにすぎないヒューマニスト(エラスムス派)―の間にはつねに緊張状態があったといいます。

この緊張状態が、欧州諸国における教会と国王との争いを説明します。エリザベス女王(イギリス)、オラニエ公ウィレム1世(オランダ)、カトリーヌ・ド・メディシス(フランス)などの「啓発された独立の俗人」がいる君主制の国ではカルヴァン派教会は大きな力を持ちえませんでした。

それに対し教会に対抗できる力をもつ俗人がいない小国(スイス・スコットランドなど)では、教会が権力を握ります。

また「貴族の無政府的自由が支配的な東ヨーロッパ」では、エラスムス主義はカルヴィニズムから自由を保ち、それゆえポーランドやトランシルヴァニアからエラスムス思想を継承したソッツィーニ主義が生まれることになりました。

このように二つの思想が溶け合わないのは、エラスムスの思想があくまで権威に頼らずに聖書の現実への適用を自らの良心という基準にのみしたがって行ったからでした。そのような考えはつねに一つの権威・流派からの異端としてのみ存在します。トレヴァー=ローパーはこのエラスムスの思想はプロテスタントのみではなく、カトリックの中にも存在したこと、しかし異端への弾圧がカトリックではより強かったことを指摘します。

そのようなカトリックの中のアルミニウス的思想家として、パオロ・サルピジャック=オーギュスト・ド・トゥ、リシャール・シモン、モンテーニュといった名前が挙げられています。また著者は、これら思想家達が折に触れ、そのヒューマニズムの思想をカトリック教会の圧制の中で保持するために、カルヴィニズムとの知的協力を試みた事実を指摘します。

このようなエラスムス派・アルミニウス派の思想にとってカルヴィニズムは、ローマ・カトリック教会の反宗教改革の動きに対する防波堤という役割以上のものではなく、カルヴィニズムの思想自体には後の啓蒙思想につながる要素は見当たらないと断言されます。ただ、それでもカルヴィニズムが啓蒙思想に寄与したその防波堤の働き自体は啓蒙思想の発展に不可欠であり、その点ではたしかにカルヴィニズムには歴史的役割がありました。しかしそこにそれ以上のものはなく、カルヴィニズム自体は著者によれば「抑圧的・対抗的・中世スコラ主義の復活・予定説の狂信者」でしかありませんでした。権威に抵抗する者自体の中には強力な権威主義の要素があるという事実を例証したのがカルヴィニズムの実態でした。

読んでいて思うのは、では著者が再三再四啓蒙主義の起源として認めるエラスムス派・アルミニウス派・ソッツィーニ派の思想とはどういうものなのだろうかという疑問。これは著者が説明不足なのではなく、ただたんに僕がキリスト教思想に不勉強だからです。

著者によればこれらの思想はカルヴィニズム・カトリックの両権威の中に隠れな紆余曲折を経ながらも生き続けます。

「イデオロギー的平和(宗教戦争によるイデオロギー闘争が中断・終焉した時期 引用者)の時代には、グロチウス、ド・トゥ、ベーコンのような錚々たる人物がこれらの思想を再統合し、それらが元々有していた尊厳を回復し、それらを一層発展させようとした。君侯や高僧は再びこれらの思想に耳を傾ける。しかし、宗教戦争の再発は正統派のうちの急進派、オランダではグロチウスを断罪したカルヴァン派、イタリアではガリレオを断罪した修道士に権力を与えることになる。再統合されたかもしれない運動はまたしても分裂する。統一的な社会では正統派となりえたものも、分裂した教会では異端となった。18世紀啓蒙主義がやってきたとき、それはすべての異端の統一、宗教革命により妨害され変容させられたが破壊されなかった運動の再統合となるであろう」(123頁)。


著者が言うように、ピューリタニズム自体は単なる権威にすぎなかったと考えるとき、「革命」「改革」というものを訴える運動は、知的に見れば非寛容・抑圧・権威主義・怠惰でしかないという事実をあらためて私達に確認させます。それは宗教改革にせよ、学生運動にせよ、グローバリズムにせよ、現在の日本の改革にせよ、です。

しかし同時に、これらの知的怠惰と傲慢という態度を示す運動の中にはつねに、前の時代にあるものを内面の良心に照らして改善していこうという良質な保守主義の思想が含まれているものなのかもしれません。問題は、こうした良質な思想は政治的には無力であり、現実の行動においてはやはり狂信的な改革思想が前面に出てくることです。

ピューリタニズムには近代官僚制と自由企業家の両方のエートスがあったという矛盾したことを社会学者言うとき、この二つには正当カルヴァン主義とエラスムス派の二つの違いが実際は存在していたのかもしれない、そう思わされました。このエラスムス派の思想と企業家のエートスとの深い結びつきを示そうとしたのが、同じ著者の「宗教・宗教改革・社会変動」という論文でした。

トレヴァー=ローパーのこの議論は現代の最前線の学者達にはどうとらえられているのか、それも知りたくなります。