陽だまりの中のなか

前田勉・秋田や詩のことなど思いつくまま、感じたまま・・・。

現代詩の終焉? 

2013-03-07 | 詩関係・その他

 「日本現代詩選 第36集」(日本詩人クラブ)が刊行された。574ページの分厚い選集である。約300名の作品を掲載(拙作も・・・)。2年に一度発行。
いつもの癖で内容よりも先にあとがきの方を読む。と、爽快な文章が飛び込んできた。小川英晴氏の「現代詩2010~2012 -現代詩の現在の情況ー」と題する編集者の一員としてあるいは個人としての鋭い現状認識と確認、提言と言える内容。

 以下、誤解を招きかねないが部分部分を抜粋する。冒頭からこうだ、

 「現代詩が停滞している。にもかかわらず詩書の出版は盛んである。短詩形の業界では自費出版が中心だから、ある意味読者を想定せず、出版社も安心して出版できる。それに、すぐれた批評家がいないために、膨大な出版物に厳しい批評をする者がいない。数人の著名な詩人が評価すれば、そのまま詩壇の評価そのものとなる悪しき状況が続いている。(中略)その責任の一端は商業詩誌と詩人、それに詩人団体にあると言ってよいだろう」 と鋭く突く。そして、熟年層と若年層の二極が益々深まることに対し、「若いものたちの挑戦的な作品を私たちはインターネットを通してしか見ることしかできない。これもまた一方の現状なのだ」と、年齢層の二極化を警鐘し、若い書き手に対しては、インターネットなどによる情報共有を捉えながらも、「大多数の若い詩人たちは同世代の若い詩人とつながるための詩を書いているに過ぎない」と断定する。一方、熟年層に対しては「精力的に仕事をしているはずの熟年世代の詩人たちの仕事は、新聞やニュースで話題にのぼるテーマを作品に取り上げるのには敏感だが、だからといって私たちが常日頃から思っていること以上のことを詩に書きえてはいない。つまり、書くものすべてが平凡なのだ」と。

 すごいではないか!この言えそうで言えないでいた事をこんなにあっさりと、しかも、当たり前のように言いのけている小川氏に感動した。小川氏はさらに続ける。

 「根本の思想が脆弱なのだ。ただ、人生詠嘆、回顧、そして文学的教養によって詩は書かれているにすぎない。(中略)書き手自身が衰弱しているのであろう。(中略)詩という様式によりかかり、そこに自らの心情を重ね合わせて書いているに過ぎないからだ。」

 これだって、ちょっとは自負心をもって書いている人にはきついだろう。

 「残念ながら近代文学の歴史のなかで、詩が文学の中心にあった時代はないが、詩が文学全体の中での指標となることはかつてはあった。北原白秋然り、島崎藤村然り、萩原朔太郎然り、谷川俊太郎然り、田村隆一や吉岡実の仕事も文壇から大きな支持を得たこともある。(中略)現在も新しい書き手は次々に詩壇に登場してきてはいるが、次々過去のものとなっている」

 
東日本大震災に関連して

 「災害当初、和合亮一のツイッーターは多くの共感を呼んだ。詩の言葉が多くの人の心に届いたのだ。だが、一部の詩人からその言葉は詩というよりはつぶやきに近く、詩人の詩としてはふさわしくないという批判を受けた。こういう時期だからこそ、詩人はもっと言葉を大切にしなければならない。そういう意味から和合亮一に限らず、この時とばかり自分の詩のスタイルを変えてまで詩を書く詩人を厳しく批判したのだ。(中略)私宛に送られて来る詩集の中で、この東日本大震災や原発は格好のテーマになってはいるが、この大きすぎる大震災に向き合い、自らの心情を吐露することは
あれ、それがいまだ新たな人類のための提言を生み出せないことは残念でならない」

 いいな、いいね。
 小川氏のこの内容の元となるような文が、「詩と思想」2012.12月号の詩集評にある。

 「現代詩の終焉」というタイトル。このときも私は鉛筆でアンダーライン(縦書きだからサイドライン?)を引いて!マークやら?マークを付している。終焉とはまた過激で理知的で勇気があって、ちょっとはうれしくもある傲慢さで、何より正鵠を得ているではないか!

 

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