秋亜綺羅氏から詩集『十二歳の少年は十七歳になった』を恵投いただいた。
秋氏の作品はリズミカルなことばと展開が特徴的で、もとよりその展開の速さ?に小気味よさを感じていた。
どこからテンポよく出てくるのだろうか。朗読に適しているに違いない。などといつも思っていた。
この度の新詩集もそうした”秋詩”が展開されているほか、
「馬鹿と天才は紙一重」という作品では、「馬鹿」と「天才」が差し込みの一枚の裏表にそれぞれ印刷され、
詩集本体には活字が鏡文字で薄く印刷されている。テープに録音した「馬鹿」を再生しながら
「天才」を朗読すると、真中あたりである詩行が重なり、
そして二つの詩の意味が逆転してゆくのだという。この発想には驚きだ。
詩集名となった「十二歳の少年は十七歳になった」を全行紹介したい。
あとがきに「東日本大震災から五年という時機に、新聞社の依頼で書いたものである」とある。
季節よ、城よ、
無傷なこころがどこにある
とランボーは書いている
海が目の高さまでやって来て
握っていたはずの友達の手を
離してしまった瞬間から
きみの時間はずっと止まったままだ
凍えていたね手と足と
おにぎりも飲み水もなかった淋しさと
叫びたかったおかあさんということば
泣くことも忘れていた吐息の温度と
暗闇に海の炎だけが映る瞳と
ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな
きみは歩きだすかな
動かない時計だって宝物だね
けれどきみがいま秒針に指を触れれば
時間はきっと立ち上がる
空間はすっときみを抱きしめる
どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできない
と寺山修司はいった
傷はまだ癒えていないけれど
今度はきみが
青空に詩を描く番だ
「ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな/きみは歩きだすかな」と語りかけるこの詩行は重い。
事の重さを言い得ている。一時あふれた当事者ではない人による”震災詩”のような
無秩序で無遠慮で感情的でやたら迎合的で無気力な世界はここには見えない。
(やや新聞紙面ということの意識?は垣間見られる?が?)
それは五年を経た時点・設定での作品だからだろうか。
現地取材で感受した”生(なま)の””現在”がそう書かせたからだろうか。
※※※
月刊詩誌「ココア共和国」の発行や賞の開設など幅広く積極的な詩活動を行っている秋氏だが、
その行動力もさることながら、考え方や発言力においても思わず頷いてしまう面があって頼もしい。
置かれた自らの位置と発言力が伴ってきているのであろう。
今年の第71回「H氏賞」選考委員長としての選評がいい。
「『針葉樹林』には、わたしは最初から票を入れることはなかった。あまりにも古い手法だからだ。
直喩の意味をなさない直喩の連発も、若い詩人たちに真似をしてほしくない。」
(日本現代詩人会「現代詩2021」より抜粋)
『十二歳の少年は十七歳になった』
著 者 秋亜綺羅
発行所 思潮社
発行日 2021年9月30日
定 価 1,800円+税
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