「針と船」
ぼくの目の前を、一本の針が布を縫い進んでいく。真っ
赤な布は大きく広がり、ひと針ひと針、赤い縫い目がどこ
までも伸びていく。ぼくは自分の見た奇跡を書き残したい
衝動に駆られる。
一隻の船が海を航行しはじめる。海は残照に真っ赤に染
められ、船の後には赤い航跡が残されて行く。ぼくが安堵
していると、一本の針が真っ赤な海を進んで、赤い航跡が
縫い込まれていく。
ぼくは不安に襲われる。そして、さっきまで見ていたも
のが、針だったのか船だったのか、わからなくなってしま
う。
上記は、去る5月25日に刊行された依田義丸さんの第二詩集『連禱』(れんとう)
に収録されている作品。なんと繊細な世界だろうか。美しい。「真っ赤」「赤い」と
いう語彙の”連打”。これほどまでに重ねて使っていることの意味合いは相当深いに違
いない。
「平面の記憶」
あのときのことをよく思い出すんだ。唐突に君が、あな
たって、紙のような人だわって言ったんだ。不意を突かれ
て、ぼくはぞくっとして、背中にくちゃくちゃの皺が寄る
気配がして、頭の上では刃物が鋭く裂くように走って、つ
づいて遠くから高い悲鳴が聞こえてきた。ぼくは急に、極
悪の罪を犯して自分をめちゃくちゃに汚したくなったんだ。
すると、君は笑いながら、いいえ、やっぱりあなたは紙の
ような人なんかじゃないわ、そう言い直した。その声を、
平面になっていく耳にかすかに聞きながら、ぼくはぼくに
書き込まれていたものがひとつ残らず消えていくのを感じ
ていた。そうしてついに、ぼくは真っ白な一枚の紙になっ
てしまって、そこからすべてが始まったんだ。
当詩集を読みながら思ったのは、依田さんの詩世界は、後述するあとがきにもあるが、
現実と非現実を表出する姿勢なのか。あとがきから読みはじめることが多い私だが、こ
のたびは無意識に目次から読み始めた。途中あたりから<現実と非現実が混ざり合って、
最後は少々奇抜な展開で終わる作品が多いな>と感じていた。
実に興味深い詩人だ。
届いた詩集に、贈呈票と発行元からの付票が挟めれていた。贈呈票は奥様・依田真奈
美氏の名が。そして発行元「思潮社」名の付票には次が記されていた。
「(略)依田義丸氏は先年来の闘病中に本書を纏め、校正刷の確認を終えてご献本の
指示までも済ませながら、出来上がりをみることなく、三月十四日に逝去されました。
ご遺志にそってご献本をお送りいたします次第です」
あとがき より抜粋
「詩という形式はそれ自体の内に一つの表現上の矛盾を元来孕んでいます。それは共通
の表現性をもつ言語を用いながらも、他方ではそれから逸脱する独創的な表現を目指し
ているというものです。そしてこの逸脱性を支えているのは、詩人自身のもつオリジナ
ルな感性や視点であることは言うまでもありません。(略)現実の否応なしの拘束のも
とで非現実と言う表現を創り出すことに魅了されながら、それを可能にする言葉表現を
紡ぎ出そうとして祈るように辿った遍歴の道のりが自分自身の詩作だったと今感じてい
ます。第二詩集『連禱』を妻真奈美に捧げます。」
ご冥福をお祈りいたします。
著 者 依田義丸(よだ・よしまる)
発行所 思潮社
発行日 2024年5月25日
定 価 2,200円(本体2,200円+税)
略 歴 1948年京都生まれ
1991年第一詩集『けいおす』(思潮社)刊行
日本現代詩人会会員
2024年3月14日逝去