横山 仁さんの詩論・評論集『ビンボーチョー 3』が「書肆えん」から刊行された。
2008年8月のビンボーチョー 1』、2013年12月のビンボーチョー 2』に続く発行。
今は廃刊となって存在しないが、当時所属していた詩誌『匪』の
第32号(1981年9月1日)から同40号(1984年12月9日)までに発表した、
詩人立中潤に関する評論とその周辺を論じる詩論、文学論である。
当時、私も同誌の同人のひとりであったが、立中潤の名を思い出したくらいで
実は、横山さんが論じていた内容は全く記憶にない。
ただ、彼の論調の凄さは、何よりも広範にわたる視点からの近接の仕方だと記憶している。
それは、時には読み手が<当然知っているであろう>との前提で進める独特の文体なせいか、
私のような俄仕立ての者には辛いもので、よく呑み込めていなかったのは事実だ。
立中潤という詩人への近接を、
「北川透氏の「あんかるわ」でみたことがきっかけだったとおもう。」とあとがきにある。
逆算してみると、横山さん30歳の頃になる。
この頃、私は何を感じていたのだろうかと思い返そうとしたが、何も蘇ってこない。
おそらく、横山さんのこの論文を読めず理解できず・・・にいたのだろう。
年老いた今、読めて、理解することができるだろうか。
心もとないが、チビチビとページをめくってみようかと少しは思ったりしている。
以下、冒頭部分を引用する。
立中潤ノート
(1)
自死する1日まえのハガキに立中潤はかいている。
「もう問もなく<おれ>の詩も終焉することになるだろう。谷川雁なら『殺す』とゆー
かも知れないが、<おれ>はゲンシユクな気持ちと、ある寂しさをもってそれを受けと
めようと思ってゐる。(中略)詩が終焉したら、ヘタクソな文章ながら、批評の方で自
立しよう(?)と思ってゐる。」
詩の終焉とはどういうことか。そもそも詩とはなんなのか。この問いは、詩になにをも
とめるのかという問いと重なるようにおもえる。たとえば近代詩の創始者といわれるポー
にとって「言葉の詩とはつまり『美の韻律的創造』だといえよう。その唯一の判定者は美
意識」でなければならなかったが、それは科学が自然を即物的にするとか、真理の追求は
散文がまさるなどとかんがえたからで、ポーは「あらゆる詩の究極の目的は真理であると
考えられている。すべての詩作品は教訓を垂れるべきであって、作品の詩的価値はこの教
訓をもって判断されなければならない」といった情況のなかで「天上の美を我がものにし
よう」というように、詩を手段から解放し、自立させるために、非詩的なものを追放しよ
うとしたのである。つまり、現実にたいして、〈反〉近代的な、意識的な抒情で抵抗する
(させられる)のである。小林秀雄が、ユーゴーでもって素朴な詩人の時代は終わったと
いい、ボードレールの思想について「詩は何かを、或る対象を或る主題を詩的に表現する
ものではない。詩は単に詩であれば足りるのである。そういう考えである」(『近代絵画
』)というとき、このような態度に言及しているのである。
著 者 横山 仁
発行日 2023年1月12日
体 裁 並本50頁 四六版
出 版 書肆えん(秋田市新屋松美町5-6 ℡・Fax 018-863-2681)
定 価 600円(本体600円+税10%)
なお、「1」は定価600円+税、「2」は1,100円+税。
お問合せは「書肆えん」横山さんまで。