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石原千秋「百年前の私たち」によれば百年前にも日本に脳ブームがあったということです。
上の文はこの本に引用されているもので、明治大正期に活躍した医学ジャーナリスト「糸左近」の「家庭医学」のものです。
「家庭の医学」にまで脳に関する記事がでていることから、脳についての話題がこのころ広まっていることがうかがえます。
明治時代も西洋文明の導入で新しい情報が大量に流れ込んできたため、時代に適応するために脳に対する関心が高まったのでしょう。
この引用文にあるように「脳」を「筋肉」と同じようなものと考えるのは、この時代の「脳科学」に共通する特徴だそうですが、このような考え方はこの当時だけのものではなく、現代の脳ブームの考え方にも共通しています。
例えば簡単な一桁の計算をしたり、文章を音読した場合に脳の血流が広範囲にわたって増加するというので、計算や音読をして脳が鍛えられると信じられています。
百年前はfMRIなどというものがなかったので、音読や計算をすると脳が広範囲にわたって使われるなどとはわからず、単に脳を適度に使えば鍛えられるとしていました。
しかし音読や計算をすれば脳が広範囲にわたって使われるから、計算や音読によって脳が鍛えられるといったところで、実際にどういうふうに鍛えられるかわからないという点では、単に脳を使えば脳が鍛えられるというのと大差はありません。
筋肉ならば運動によって筋肉のどの部分が大きくなって発達したかが目で捉えられますが、音読や計算の場合は脳のどの部分がどう変わるか、具体的にはまだわかってはいません。
ところがその後研究が進むにつれて、なにも計算や音読の場合だけに脳が使われるわけではないということがわかってきています。
例えば会話をしたり、料理をしたりするときなど、人間のいろんな活動に脳が使われるということが(あたりまえですが)明らかになっています。
考えてみれば人間が何かをするために脳を使うのであって、脳を鍛えるために何かをするのではないのです。
たとえば料理を作る人はどうしたらよい料理を作れるかアタマを使うのですが、よい料理を作れる脳力を鍛えるにはどうしたらよいでしょうか。
料理をすれば脳が鍛えられるのだから料理をすればよいというのでは答えになりませんし、まさか音読や計算をやればよいということではないでしょう。
文章を読む場合でも、文意を速く的確につかむとか、内容を深く味わうとかが可能になるためには脳が鍛えられなければなりませんが、どうすればよいかといったときに料理をすればよいという答えはヘンでしょう。
音読や計算をすればよいというのも、全然役に立たないとはいえなくてもトンチンカンな答えでしかありません。
筋肉とのアナロジーで考えるのなら、筋肉のようにどの部分をどのように鍛えればどのような結果が得られるという形で鍛え方を表現すべきです。
明治の脳科学は筋肉とのアナロジーで、脳も適度に休ませなければいけないとしていますが、このほうが現代のようにやたらと脳の活性化を追及するより健全なようです。
脳が忙しく動いていないと「ゲーム脳は痴呆脳だ」というような暴論が出てくるのですから、現代の脳ブームのほうがバランスを欠いています。
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