60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

カタカナ語のカナ遣い

2008-03-15 23:55:51 | 言葉と文字

 カナは漢字の音を基にして作られたものですが、日本語の発音が変化するにつれてもとの漢字の音から離れてきています。
 たとえば「は」「ひ」「ふ」のもとの漢字は「波」「比」「不」ですが、漢字音は「パ」「ピ」「プ」ですから、カナが作られた当時は「パ」「ピ」「プ」に近い音で発音されていたのですが、日本語の発音は「fa」「fi」「fu」から「ha」「hi」「hu」へと変化してきています。
 中国での漢字の発音(読み方)と日本での発音(読み方)とは違ってきているのは、現在の中国語の読みと日本語の読みとを比べるとハッキリわかりますが、カナの発音の変化は気がつきにくいものです。
 
 中国語の漢字の場合は、一文字が一単語となっているので、単語の発音の変化と文字の発音の変化が連動していますが、日本語の場合は一文字が一単語とは限らないので、文字の発音が変わらなくても単語の発音が変わるので厄介です。
 たとえば蝶という単語はカナで最初は「てふ」と書いて「テプ」のように発音したのですが、「ふ」の発音が「pu」から「fu」「hu」に変わっても表記は同じでよかったのですが、「tehu]と発音していた単語が「tyou」のような発音に変化するということがおきます。
 「ふ」の発音は変化しなくても「てふ」の発音が変化してしまうということになると、一文字づつの読み方と単語の読み方とがずれてしまいます。
 
 単語の発音が変化しても、文字表記は変えるべきでないというのが歴史的カナ遣いの立場ですが、文字表記の連続性を保つという点では便利なようですが、表記と読みを別に覚えなければならないので実用的には不便です。
 極端な例ですが、カタカナ語というものも漢語と同じように日本語の中に入り込んでしまっていますから、表記の一貫性を保つべきなのかという問題があります。
 たとえば現在「アビリティー」と表記し、「アビリティー」と発音しているのが「アベレレ」と発音がでてきたときどうするのでしょうか。
 「アビリティー」と書いて「アベレレ」と読めというのでは混乱するでしょうから「アベレレ」と表記も変えるのがよいと思うかもしれません。
 そうなると表記の一貫性が失われてしまうのですが、だからといってabilityという原語を使うべきだということになればさらに厄介です。
 「アベレレ」は「アベレレ」と表記し、どちらが日本語として定着するか自然淘汰に任せるしかないのですが、まず無理に英語式発音を日本語に持ち込もうとしないことだと思います。

 日本語では漢字の読み方は中国語と離れて日本語化してしまっていますから、それと同じようにカタカナ語も日本語として考えれば無理に英語的な発音を導入することもないと思います。
 日本語としてのカタカナ語は英語とは別物と考えればよいわけで、中国語と違うからといって日本語化している漢語をアラタメテ中国式発音に変えようとすれば混乱するのと同じことです。
 


日本語読みになるカタカナ語

2008-03-11 22:53:31 | 言葉と文字

 図の右側は、明治時代に耳から英語が導入されて、カタカナ語として定着したものです。
 真ん中はその英語のスペリング、右は現在通用しているカタカナ語の形です。
 明治時代には耳で聞こえたままをカナに移し変えたもので、いわば口真似ですからアメリカ人にも何とか理解できた可能性があります。
 ちょうど、ジョン万次郎が「sunday」を「サンレイ」、「New York」を「ニューヨー」と発音したように、日本風の発音であるにしろ、聞こえたとおりの口真似ですから似ていて、アメリカ人に理解されたのと同じです。

 明治時代に耳から導入された英語がその後、右の例のように変えられ、その結果アメリカ人には理解されない発音になってしまったのですが、その原因は英語の綴りと見比べるとわかります。
 右側のカタカナ語は、日本人から見れば英語の綴りを比較的に忠実に反映しているように見え、左側のカタカナは綴りからずれているように見えます。
 右側のカタカナは「i」を「アイ」、「a」を「エイ」、「u」を「ア」と発音していますから単純なローマ字読みでなく、中学で習う発音記号にしたがっている部分もあります。
 これは発音記号による読み方とローマ字読みとが組み合わさった読み方で、実際のアメリカ人などの発音に従わずに、辞書だよりで作り上げた読み方のようです。
 
 普通の日本人は右側の読み方に慣れてしまっているので、左側のほうが原語に近い発音を表わしているといわれてもなかなか信じられないでしょう。
 どう見たって英語の綴りを見れば左側のカタカナは綴りと合わないと感じるはずです。
 アルファベットは音標文字といわれ、ことばの音声を文字に転写していると考えられています。
 だから、アルファベットで表わされている英語の綴りを、日本語のカナに変換する規則がわかれば、その規則によってカナに変換すれば英語の発音が文字からわかると考えられたのです。
 ローマ字的な読みといくつかの英語特有の綴りに対する読みの規則から、単語の読みを推測したのでしょう。
 
 実際はアルファベットが音標文字だからといって、綴りが音声をそのまま文字に写しているわけではありません。
 綴りは発音に対応しているといっても、綴りを見れば発音がわかるというものではありません。
 アメリカ人であっても、綴りを見ればただちに発音がわかるというわけではなく、言葉を知っていて発音ができるのに、文字に写したものは読めないということはあるのです。
 文字を見て読むことができるというのは、音声としての言葉を知っていて、その言葉に対応する文字綴りがわかるということです。
 もとの音声をしらなければ、綴りから音声がわかるとは限らないのです。

 日本で通用しているカタカナ語は、日本人が英語の綴りを想起できるようにはなっているのですが、アメリカ人の発音を想起できるようにはなっていないのです。
 これに対し明治に耳から入ったカタカナ語は、聞いたとおりの口真似だったので、綴りを意識しなくてもよかったのですが、カタカナとして定着してしまうと日本式のカタカナ読みとなって、英語の発音と離れてしまったのでしょう。
 その結果現在のカタカナ語にとって変わられてしまったのでしょうから、最近の口真似式のカタカナ語も、カタカナ語として文字化されれば原音とずれが激しくなりもとの戻るのではないかと思います。


発音用のカタカナ表記

2008-03-10 23:02:38 | 言葉と文字

 上の図で枠に囲まれた太字のカタカナ語は、いずれもよく知られた単語なのですが、意味が分かるでしょうか。
 これは、池谷祐二「怖いくらい通じるカタカナ英語の法則」に載っている例で、英語をアメリカ人に理解できるように発音した場合、発音をカタカナにするとこのような具合になると言うものです。
 下にあるのは同じ単語を現在普通に使われている、日本式のカタカナ語表記です。
 普通の日本人が「アビリティー」というふうに発音している言葉は、アメリカ人には意味が分からず、「アベレレ」と発音すれば理解されるというのです。
 上のアメリカ人に通用するという発音のカタカナ表記と、下の日本人が使っているカタカナ表記とではかなりの差があり、一見したところではとても同じ単語を表現したものとは思えないでしょう。

 たいていの日本人は、上のカタカナ表記だけを見たのでは意味が分からず、対応する単語の綴りを思い浮かべることもできないと思います。
 原語のabilityの綴りを見れば、「アビリティー」のことだとは思えても「アベレレ」のことだとは思えないでしょう。
 battle,better,cigaretteが「ベアロウ」、「ベロ」、「セゲレッ」なのだといわれてもピンとはこないでしょう。
 しかし原語の綴りを見ないで、アメリカ人の発音を聞けば、「バトル」、「ベター」、「シガレット」よりも「ベアロウ」などのほうが近い発音であると感じるはずです。
 
 それでは「ベアロウ」とか「ベロ」といったカタカナ表記にすればよいかというと、そうとばかりはいえません。
 カナだけを見て日本人がこれを読むと、「ベ、ア、ロ、ウ」と一つづつ文字を読んでからつなげて「ベアロウ」と平たく読んでしまいがちです。
 英語のbattleは母音がひとつですから、「ベアロウ」と聞こえても「ア」の部分が強く聞こえ他の「え」とか「オ」、「ウ」はそのような感じがするという程度です。
 「ベ、ア、ロ、ウ」と母音を平等に発音したのではアメリカ人の発音に近い「ベアロウ」とは全く違った発音となります。
 「ベアロウ」というカタカナ表記を日本式に読んだのでは、アメリカ人にも日本人にも理解できないということになりかねないのです。

 これまで日本人が英語を学習するときは、文字を見ながら発音を聞いていたので、耳だけで聞けばoriginalは「アレジェノウ」というふうに聞こえたのに、「オリジナル」と聞こえていたのです。
 したがって「オリジナル」という表記を見ればoriginalという綴りに結び付けることができ、またアメリカ人の「アレジェノウ」という発音に対してもorijinalと結びつけることができたのです。
 ただし「アレジェノウ」というカタカナ表記とoriginalという原語表記とは結びつけるのが難しいのです。

 もし今後発音に近い表記ということで、上のようなカタカナ表記が広く使われだすと、どうなるでしょうか。
 カタカナ表記を読むときに多くの人が英語発音的に読めばよいのですが、日本語式の読み方をすれば日本人にも英米人にも、その他の外国人にもわからないような言葉が広がるということになりかねません。
 上のようなカタカナ発音は、英語の発音を日本人が真似ようとするときの便法としてコッソリ使うべきものだろうと思います。


日本語耳のカタカナ語

2008-03-09 22:29:50 | 言葉と文字

 池谷祐二「怖いくらい通じるカタカナ英語の法則」によると、日本人の英語はアメリカ人には通じないと言われるけれども、英文をカタカナで話すと通じるといいます。
 題名だけから想像すると、いわゆる日本で使われているカタカナ英語が通用するように思ってしまいますがそうではありません。
 たとえば、日本で使われているカタカナ英語なら、数のことを「ナンバー」というのを「ナンボ」、「アニマル」(動物)を「アニモウ」のように発音すると通じると言うのです。
 「ホスピタル」(病院)は「ハスペロウ」と発音すればよいというので、日本人が使っているカタカナ英語とはかなりの違いがあります。

 アメリカ人に聞かせれば「ハスペロウ」という発音は「病院」の意味と受け取られ、「ホスピタル」では理解されないと言うわけですが、日本人にはどう聞こえるのでしょうか。
 アメリカ人が「hospital」と言ったとき、日本人の耳には「ホスピタル」と「ハスペロウ」のどちらが似て聞こえるかと言うと、「ハスペロウ」のほうが似ているのです。
 「Thank You」は従来の日本のカタカナ語では「サンキュウ」ですが「テンキュ」と日本人の耳には聞こえるので、しゃべるときも「テンキュ」と発音したほうが通じると言うのです。

 もともと成人した日本人は日本語用の発音に固まっているので、英語の発音ができなくなっていますから、英語らしく発音しようとしてもうまくいきません。
 耳も日本語を聞き取るように特化しているので、英語の音を正確に聞き取る能力もないわけです。
 それならアメリカ人の発音を日本語耳で聞こえたとおりに、日本語式の発音で話すほうが似て聞こえるということになります。

 幕末にアメリカに漂流したジョン万次郎の英語と言うのもこのようなものであったらしく、「cool」は「クール」でなく「コール」、「Sunday」は「サンデー」でなく「サンレイ」と発音したそうです。
 つまり日本語耳に聞こえた音を日本語音で発音しているのですが、このほうが通じたと言うのは、聞こえたとおりに発音しているからです。
 ちょうど下手な絵は何を描いたかわからない場合があっても、カメラなら解像度が低くても何を写したかわかるようなものです。

 発音はなまじ発音記号を見て覚えるより、聞こえたままに発音したほうがかえって通じるというのですが、この聞こえたままをカタカナ表記にするという方式が今後流行するのかというのは気がかりな問題です。
 現在のカタカナ語はほとんどが英語の綴りをローマ字式か、辞書に載っている発音記号を日本式に読んだものです。
 普通の日本人にとってはアメリカ人に通じるカタカナ語でなくてもよいのですが、通じるカタカナ語というので新しい読み方が台頭してくると混乱するでしょう。
 漢字を中国人と違った発音でつかっていて、中国式に発音すべきだという主張はこれまでなかったのですが、英語については話すことも重視されつつあるので、カタカナ語の表記にも影響がでてくるものと思われます。
 


拾い読みと助詞

2008-03-08 23:31:45 | 文字を読む

 最初の文は「風の強い日に花粉は大量に飛び回ります」と言う文の語順を変えたものですが、名詞の後につく助詞は切り離していません。
 助詞は文章の中での名詞の役割を示すので、名詞から切り離さなければ、語順を変えても文の意味が何とかわかります。
 二番目の文は助詞を名詞から切り離して助詞の語順を変えたもので、この方が意味が分かりにくくなっています。

 三番目の文は漢字だけを残し、ひらがな部分を伏字にしたものですが、伏字になっている部分は容易に推測できます。
 このような例を見れば、漢字かな交じり文は、漢字だけ目でとらえて拾い読みをしても意味はわかるものだと思うかもしれません。

 しかし次の四行目の文を見たら伏字の部分は簡単に推測はできないと思います。
 「白烏」は「しろからす」で「城枯らす」つまり「しろからす」に通じると言うモジリを知っていればすいそくできますが、そうでないと漢字を目で拾い読みしているだけでは意味がわかりにくいでしょう。
 次の文は助詞を名詞と切り離さないままで語順を変えてありますが、これも名詞と助詞のつながりをひとつの語として区切って読めば意味が何とか分かります。

 次の六行目の文章の場合は、漢字以外が伏字になっていますが、文の意味は分かりにくいと思います。
 「言わない」の部分は漢字だけが示されていても、伏字の部分を推測できないので、文全体の意味が分かりません。
 これが七行目の文のように、助詞がついたままで御順が変わっているのであれば意味が分かるのですから、漢字かな交じり文の場合は助詞が意味をつかむ上で重要な役割を占めていることがわかります。
 
 ギリシャ語の文も語順を変えても意味が分かる場合が多いということですが、ギリシャ語の場合は名詞が語尾を変えることで格変化をするので語順を変えても意味が通じるのです。
 ちょうど日本語の名詞に助詞がくっついているようなもので、名詞自体が格変化をすることで文の中ででの名詞の役割を示すので、御順が変化しても意味がわかるようです。

 文章の意味をつかむ上では、漢字だけを重視するのではなく、名詞+助詞をひとまとまりのものとして捉えて読み取っていくということのほうが大事です。
 名詞を見たとき名詞が漢字であれば、名詞についている助詞は当然目に入るのでそのときに読み落とさないように注意することが大事なのです。


短絡的判断も有用

2008-03-04 23:01:18 | 視角と判断

 写真が八枚ならんでいますが、真ん中(■の上の部分)に視線を向けて見ると両脇の二つの顔はハッキリ見え、表情もわかります。
 ところが残りの顔は見えているという感じがするのに、どんな表情なのかまではわかりません。
 男性の顔なのか女性の顔なのか、髪の毛が金髪であるかどうかなど大雑把なことはわかりますが、どんな表情なのかまではわかりません。
 一番左の顔と一番右の顔は同じ人物の顔なのですが、左のほうは右のほうの顔の左側の半分を反転して右側に写して作った左右対称の顔です。
 ■の部分に視線を向けたまま見たのでは、二つの顔は目に入るのですが、一番左の顔が左右対称で、一番右の写真とは似ているが異なるということまではわかりません。
 周辺視野はよく見えているように感じても、細かい点が実際にどうなっているかは見えていないのです。

 このことは写真の下の文字列を見てみるとよくわかります。
 すぐ下の漢字列では真ん中を中心にして5文字ぐらいまでは読み取れますが、
それから外側の文字になると、見えてはいても読み取ることが難しくなります。
 どの漢字も少し複雑なので、外側の文字はボンヤリとしか見えないと読み取ることが困難になるからです。

 同じ文字でも次の行のアルファベットとか、ひらがな、カタカタになると、視線を動かさなくても注意さえ向ければ一番遠い左端の文字でも、右端の文字でも何とか読み取れることができます。
 文字の形が漢字で字画の多い複雑なものよりも、比較的に簡単なためボンヤリとしか見えなくても文字を見分けることができるのです。
 それだけでなく、カナやアルファベットは数が少ないので強く記憶されていてボンヤリとしか見えなくてもそれと見分けやすいからです。
 ハッキリとそれと見分けることができなくても、大雑把な部分的な理解から全体を「これ」と推定して読み取るのです。
 詳しく見極めなくいまま、いわば短絡的に理科してしまうのです。

 五行目の文字列は固、細かい部分が見分けられるように明朝体で書かれています。
 それでも比較的易しい漢字なので周辺視野にあっても、字画が少ないため周辺視野にあっても読み取れるものがあります。
 ところが実はいくつかの文字は左右を反転させた鏡文字にしてあります。
 それらは字画が少ないので大雑把にしか見えなくても、それと見分けてしまういわば短絡的なやりかたで読み取っているのです。

 六行目はひらがなばかりが並んで、その上も字が似通っているため、周辺視野では見分けにくくなっているのですが、七行目のように漢字が間に入り、青と言う文字列の知識があるため見分けやすくなっています。
 はっきり「あお」と見分けているのではないのですが、規制の知識があるので短絡的に当てはめて見ているのです。
 このように短絡的に判断して読み取る能力があるから、速読ができたり、あるいは目の負担を軽くしてよむことができるので、短絡も有益な能力でもあるのです。
 
 
 


浮世絵の遠近法

2008-03-04 00:04:02 | 部分と全体の見方

 図は江戸時代中期の浮世絵画家奥村政信の「芝居狂言浮絵根元」です。
 奥村政信は日本でもっとも速く遠近法を導入した画家で、近衛にも遠近法が取り入れられています。
 ところがこの絵を見るとすぐに気がつくのは、中央の本舞台にいる五人の役者はずいぶん大きく描かれていることです。
 まわりは線遠近法で描かれているのに、ここでは線遠近法は無視され、それまでの日本風の平行遠近法で描かれています。
 つまり重なりと上下関係で奥行き感が表現されているため、周囲の線遠近法の環境からは切り離され浮き出ているように見えます。

 この絵より前の奥村政信の作品では、本舞台も世年金法に従って描かれているものがありますから、この絵で本舞台の描き方を変えているのは、何らかの意図があってのことだと考えられます。
 この絵でもそうですが、芝居小屋の絵というのは観客席が大部分を占めていて、観客の様子が詳細に描かれています。
 そこで観客の様子を見ると、すべての観客が芝居のほうに注意を向けているかというと必ずしもそうでなく、舞台以外に関心を向けている観客がかなりいるようです。
 当時の観客は現代の観劇客のように行儀がよくはないのです。
 芝居のほうに目を向けている人もいれば、観客同士で話し合ったり、飲食に集中したり、ほかのほうを見たりしている人もいます。
 観客がみな芝居のほうに集中しているなら、客席のほうを詳細に描いても意味がないのですが、気楽にいろんなことをしていれば、観客を描くこと自体に面白みがあります。

 この絵の場合は、観客席が詳細に描かれている一方で、本舞台が線遠近法を無視して、従来の平行遠近法で描かれているのは、やはり役者のほうにも注意を向けたいからでしょう。
 それだけでなく、まわりが線遠近法でえがかれているのに、本舞台のところだけが平行遠近法という別の方法で描かれた結果、本舞台の部分がせり出しているように見え、インパクトが強くなっています。
 ちょうど、下の図のように真ん中の四辺形の部分は、線遠近法からすればかなり奥に位置するように見えるはずなのに、しばらく見ていると逆に手前のほうにせり出して来て見えます。
 
 下の図で真ん中の四角い部分の見え方が逆転して手前のふにせり出して見えてくるのは、この部分が平面的に描かれ、まわりの線遠近法の世界から切り離されているからです。
 まわりの線遠近法によって一番奥に見えるはずなので目が焦点距離を変えると、実際は奥にはないのでかえって大きく浮き上がって見えるのです。
 奥村政信がそのように意識して描いたかどうかは不明ですが、結果的には役者のほうに注意を向けさせて目立たせる効果をあげています。


「が」と「は」と冠詞

2008-03-02 23:06:20 | 言葉と意味

 日本語には英語のaとかtheのような冠詞はありませんが、養老孟司「バカの壁」では、日本語にも冠詞の機能をするものがあり、それは日本語では格助詞の「が」と「は」だとしています。
 たとえば①のような英文は「机の上にリンゴがある。そのリンゴは...」ということですが、この場合のan appleは特定のリンゴでなくリンゴという概念を指し、The appleは具体的な特定のリンゴを指すとしています。
 つまり冠詞のaとtheは概念と具体的なものを分ける機能を持っているのですが、日本語でもそういう区別をする機能があって、それは「が」と「は」と言う助詞が果たしていると言います。
 その証拠として②の文が上げられていて、最初の「おじいさんとおばあさんが」というときはまだ、どのおじいさん、おばあさんと決まっていないので、不特定の「おじいさんとおばあさん」(という概念)で、つぎの「おじいさんは」というときは、特定の「おじいさんとおばあさん」をさすので、「が」と「は」が冠詞と同じ役割を果たしていると言うのです。

 ところが例にあげられている文には、「山」とか「芝刈り」という名詞が出ていて、「芝刈り」はともかくとして「山」には英語なら冠詞がつくはずです。
 日本語のほうには「山へ」と「へ」という助詞がついていて、「が」とか「は」となっていません。
 この山がa mountainなら「山が」となり、the mountainなら「山は」となるはずですが、そういう日本語表現はありません。
 「おじいさんは山が芝刈りに」も「おじいさんは山は芝刈りに」も意味がわからなくなります。
 aとtheが「は」と「が」に対応するといっても、たまたまそういう例があったということにすぎず、短絡した説なのです。
 
 write a letter in the sandというのを「手紙が砂は書いた」と訳したのでは何のことやらわかりません。
 簡単なthis is a penにしたところで、「これがペンです」とは訳さず「これはペンです」と訳すので、aは「が」に対応するというわけではありません。
 またaが概念、theが特定のものに対応するというのも、一概に言えることではなく、③の例のような例では、aでもtheでもいずれも特定のものを示しているのではなく、[ビーバーはダムを作る」と一般論を述べています。

 冠詞は名詞の前に来るのに、日本語の格助詞は名詞のあとに来ているので、単純に考えても機能が違うことが予想できるのですが、著者は機能がまったく同じだとし、「ギリシャ語を調べると冠詞は助詞の後にきてよいことになっている」と主張しています。
 ギリシャ語がどうだからといって、日本語の助詞が冠詞と同じ機能だという根拠にはなりません。
 ギリシャ語などを持ち出されれば、普通の人はわけがわかりませんから「そんなものか」と思うかもしれませんが、こういうメクラマシは感心しません。

 ギリシャ語などまったく知らないので、一応ギリシャ語の解説書などをのぞいてみると、ギリシャ語には名詞+冠詞+形容詞という形もあると(名詞の後に冠詞が来るということとは違うようです)書いてあります。
 ただギリシャ語は名詞が格変化をするので、日本語の格助詞の機能は名詞の各変化の中に織り込まれているため、冠詞とは関係なく「が」とか「は」という意味を得ることができます(ギリシャ語では名詞がたとえば「おじいさんが」「おじいさんの」「おじいさんを」「おじいさんに」というふうに語尾変化するのです)。
 名詞ばかりか冠詞も形容詞も格変化するのでギリシャ語は、語順を変えても意味が通じるということで、さらに英語のthis is a penのaのような不定冠詞は使われないともいいます。
 
 英語のa,theと「が」「は」が対応しているように見える例がたまたまあったところからヒラメイた説なのでしょうが、ヒラメキが面白いとそれにに目がくらんで固執してしまい、付会に走るのはこまりものです。


「話せばわかる」は大嘘?

2008-03-01 23:28:01 | 言葉と意味

 「まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか。」と犬養首相は何度も言いましたが、「問答無用。撃て。」と青年将校らは犬養首相を銃撃。
 それでも犬養はしばらく息があり、駆けつけた女中に「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったといいます。
 犬養首相が銃撃されながらも「話せばわかる」と言ったのは、青年将校たちと立場が違っても、国のために尽くそうという点については共通の心を持つと考えたからでしょう。
 共通点があるから、話をすれば相手に自分の意志が伝わり、了解されると思ったので撃たれてからも「よく話して聞かせる」と言ったのだと思います。

 世の中には、「話せばわかる人」、「話してもわからぬ人」、「話さねばわからぬ人」がいるだけでなく「話を聞こうとしない人」がいます。
 こういう人は話せばわかるかもしれないけれども、話を聞くことを拒否するので結果としては「話してもわからぬ人」と同じことになります。
 犬養首相の時代には「話せばわかる」があたりまえではなくなり、「話してもわからぬ」場合が増えはじめたのです。

 養老孟司「バカの壁」と言う本には「「話せばわかる」は大嘘」」とありますが、こういう表現は何となく奇異な感じがします。
 ふつう「話せばわかる」というのは話者の判断であって、間違いだということはあっても、嘘だということでは必ずしもありません。
 「話せばわかる」というのが常に正しいということではなく、「話してもわからない」人がいることはたいていの人が知っています。
 ですから「話せばわかる」は大嘘だと言われても、何でことさらにそんなことをいうのか不思議に感じます。
 
 そこで本に書かれている内容を見ると、著者が「話してもわからない」と痛感した例として、某大学の薬学部の男女の学生にある夫婦の妊娠から出産までを詳細に迫ったドキュメンタリー番組を見せたときの、男子学生の反応を上げています。
 女子学生たちはは「大変勉強になった」としているのに、男子学生たちはみな「こんなことは既に保険の授業で知っているようなことばかりだ」と答えたのだそうです。
 男子学生は「出産」についての実感を持ちたくないので、ビデオを見ても積極的に発見をしようとしない、つまり自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっていて、ここに壁が存在するというのです。
 著者はここで「これも一種の「バカの壁」です」と突然「バカ」と言う言葉を出しています。

 「これも」というのでその前に例があるかと思って読み返しても、これが初めての例なので、「バカの壁」というのは普段からの著者の口癖なのでしょう。
 それはともかく「わかろうとしない」から「バカ」と決め付けるのはどういうことかわかりません。
 また、このことから「話せばわかるは大嘘」と結論する理由はわかりません。
 著者は犬養首相のように「話せばわかる」と対話を求めたわけではないようなので、男子学生がビデオから素直に学ぼうとしないことで、「話してもわからない」と判断したようです。
 
 この例を見る限りでは「話せばわかる」は、別に大嘘ということにはなりません。
 「話せばわかる」ということばの「話す」は一般的には、相手に話しかけるとか話し合うということで、ビデオを見せることではありません。
 また「わかる」は「了解する」と言う意味で、ビデオから学ぶと言うようなことではありません。
 「わかろうとしない」ということを知識欲がないという意味に短絡させたために「バカの壁」と言う表現が生まれたように感じます。