60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

旧仮名遣いは会話表記が不得手

2007-10-14 22:36:57 | 文字を読む

 仮名はもともと表音文字として作られているので、なるべく発音どおりに表記されることが望ましいはずです。
 旧仮名遣いは古い時代の発音を反映しているのですが、時代が変わるにつれ発音が変わって、表記法とズレが出てきています。
 表記が変わらないほうが首尾一貫して合理的だからよいのだ、とするのが旧仮名遣い論者の意見なのですが、そう簡単に割り切れるものではありません。

 たとえば、「会議」を現代仮名遣いでは「かいぎ」、旧仮名遣いでは「くわいぎ」と表記します。
 発音のほうは「かいぎ」と一通りなら問題はないのですが、まだ地方によっては年配の人で「くわいぎ」と発音する人がいます。
 「会議」を「くわいぎ」と発音する人と、「かいぎ」と発音する人を現代仮名遣いでは書き分ける事ができますが、旧仮名遣いではどちらも「くわいぎ」と表示するので、書き分ける事ができません。

 また図のBの例のように、「王手飛車取り」というのをワザとイヤミで「わうてひしゃとり」というような場合、現代仮名遣いでは発音がそのまま反映されますが、旧仮名遣いでは「おうてひしゃとり」と読んでしまうので、「ワウテヒシャトリ」という発音を反映することができないのです。
 つまり旧仮名遣いでは古い読み方を、現代の発音に変えて読ませるので、古い読み方を読ませることができなくなってしまうという矛盾があるのです。
 旧仮名遣いに反映されている発音が、完全に現代ではなくなっているのであれば問題ないのですが、現在も残っていたり、方言の中に反映されていたりするので、ちょっと困ります。

 「女房」は現代仮名遣いでは「にょうぼう」、旧仮名遣いでは「にょうばう」ですが、会話では「にょうぼ」と短縮されるほうが多いでしょう。
 現代仮名遣いでは「にょうぼう」が短縮されて「にょうぼ」で分りますが、旧仮名遣いでは「にょうばう」ですから短縮形は「にょうば」となるでしょうか。
 旧仮名遣いでも「ニョウボウ」という発音の短縮形は「ニョウボ」なので「にょうばう」の短縮形は「にょうぼ」だというかもしれません。
 しかし方言では「女房」を「にょうば」という地方があり、これは「ニョウバウ」と発音していた時代の反映です。
 「隠れん坊」を「かくれんば」、「行こう」というのを「いかー」と言うように、旧仮名遣いの発音の短縮形が残っている地方があるのですから、旧仮名遣いでは「にょうばう」の短縮形を「にょうぼ」とするのは無原則でよくありません。

 また「蝶々」は現代仮名遣いでは「ちょうちょう」、旧仮名遣いでは「てふてふ」ですが、会話では「チョウチョ」と発音されます。
 現代仮名遣いでは「ちょうちょ」ですが旧仮名遣いでは「てふちょ」でしょうか。それとも「てふて」てしょうか。
 普通は「てふてふ」と書いて「チョウチョ」と読んでいたようですから、「チョウチョウ」と「チョウチョ」を書き分けてはいなかったようです。
 つまり話し言葉は書き言葉のように折り目正しくないので、旧仮名遣いで対応するのは難しい面があるのです。
 


読みにくい旧仮名遣い

2007-10-13 22:27:25 | 文字を読む

 旧仮名遣いから新仮名遣いに変わってから60年ほどになりますが、いまだに旧仮名遣いのほうが合理的で、美しいとして旧仮名遣いをする人がいます。
 どちらが合理的であるかはともかくとして、ほとんどの人が新仮名遣いに慣れてしまった現在では、旧仮名遣いは読みにくい、書きにくいという点で不便になっています。
 たとえば上の表にあるような漢字熟語の読みは、見慣れていないのでパッと見て頭に入りません。
 
 旧仮名遣いの読み方の規則を習っていれば、「しゃうはふ」が「ショウホウ」、「せうがふ」は「ショウゴウ」と読めるのですが、ひらがなで「しょうほ」、「しょうごう」と表示された場合に比べればスンナリ頭には入りません。
 「てふふ」、「てんわう」などは読み方の知識がないと「てんのう」、「ちょうふ」と読めないでしょう。

 普通は漢字かな交じり文になっているので、旧仮名遣いでも漢字語の読みは表に現れることがなく、意識されないので困らないように感じます。
 しかし。もし辞書が旧仮名遣いの見出しで作られているとすれば、音で「チョウフ」という単語の意味や、漢字を知ろうとしたとき「ちょうふ」で引いたのではダメで「てふふ」という見出しで探さなければなりません。
 たとえば音で「こう」に対応する旧かな表示は「かう、こう、かふ、こふ、くわう」などがあるため、音で「こうこう」という単語を引こうとすると、組み合わせが多すぎて戸惑ってしまうでしょう。
 「やまい こうこうに いる」などという言葉を聞いたら「かうくわう」で引き、「はの こうごうが わるい」と聞いて「かうがふ」で引くとなるとトテモ大変です。
 これではたまらないので国語辞書の見出しはローマ字にでもするしかないでしょう。

 旧仮名遣いのほうが合理的とする例で、「おうぎ」と「あおぐ」が旧仮名遣いでは「あふぎ」、「あふぐ」となるので語源が同じことが示されるというような例が出されます。
 漢字で書けば「扇」と「扇ぐ」なので同じ語源であるとか考えるまでもないのですが、「あふぎ」と「あふぐ」を並べて見せて「あふ」が共通なので語源が同じといわれてもそれほど感心することもありません。
 「あふぎ」の「ぎ」は何か分らないのと、おなじ「あふ」が片方が「オウ」と読み、もう一方は「アオ」と読んでいるので「あふ」は自動的に同じと思えないでしょう。
 「あふぎ」が「アフギ」と発音され、「アウギ」となり、「オウギ」と発音されたと考え、「あふぐ」が「アウグ」、「アオグ」と変化したと考えれば、現代仮名遣いの「おうぎ」と「あおぐ」が共通語源を持つことが推測できます。

 現代仮名遣いでは大阪、逢坂がいずれも発音は「オーサカ」なのに「おおさか」、「おうさか」と書き分ける根拠が示されていないといいますが、漢字で「大」は「おお」、「逢う」は「おう」に変化すると考えれば根拠は示されます。
 現代仮名遣いで「稲妻」を「いなずま」とするのは「妻」の意味が失われるといいます。
 しかし稲妻の語源は「稲の夫(つま)の意。稲の結実の時期に多いため、これによって稲が実るとされた」というなら「妻」は誤用で意味が失われたほうがよいといえます。
 この語源説自体が苦しく、「いなずま」という言葉に語源がしめされる必要もありませんが、しいて語源をたてるならば「稲光」稲の形をしていることから「稲の夫あるいは稲の妻」になぞらえたといったところでしょうか。


周辺視野と眼の動き

2007-10-09 22:44:22 | 文字を読む

 文章を読んでいるとき、視線は活字の上を順に滑らかに動いているように思うかもしれませんが、実際はあるところに留まった後、ジャンプして前方に進みます。
 図Aは、コンピュータ制御の視線追跡装置を使って、視線の動きを調べた様子を示したものです。
 A図では眼が停留する地点を小円で示し、次の停留点への眼が跳躍する動きを矢線で表わしていますが、停留する時間は一定ではありません。
 B図は小円の大きさで停留時間の長さを表現したもので、眼が留まる時間は文字あるいは単語によってかなりの差があります。
 
 単語の上に眼を留めているのは、読み取った単語と頭の中にある記憶と照合していて、意味が分れば次に進むというふうに解釈されています。
 したがって見慣れていて易しい単語であればすぐに照合でき、難しくて見慣れていない単語なら照合に手間取ると考えられます。
 停留時間の差は読み取りやすさの差であるということです。
 しかし、易しいとか、見慣れているとかいう事は個人差があって、ある人にとっては難しく見慣れない単語でも、別の人には易しいということがありますから、停留時間は読む人によって違うということになります。

 個人差は停留時間だけでなく、どこに停留するかという点についてもありますし、また跳躍距離についてもあります。
 文字を読みなれない人はすべての単語に停留したりするので、跳躍距離は短いのに、読みなれた人は跳躍距離が長くなります。
 
 視線の動きはジャンプしながら進んでいくというのですが、それではジャンプして次の停留点はどうやって決まるのかという問題があります。
 視線がある点に停留しているとき、次の停留点が見えていないことにはジャンプしてどこに着地してよいか分りません。
 したがって停留点では、眼に入った単語と頭の中の記憶とを照合するだけでなく、次の停留点を探っているのです。
 そうすると、現在停留している地点を見ているだけでなく、周辺視野にある次の停留点が見えていなければなりません。
 現在停留しているところに集中しすぎてしまうと、次の停留点を見つけることができていないので、改めて次の停留点を探さなくてはなりませんから、それだけ余分な時間がかかります。
 文章がスムーズに読めるためには、一つ一つの単語に集中しすぎないことと、周辺視野がはっきり見えなくても、無意識のうちに次の停留点が決まる程度には活性化することが必要なのです。
 
 


縦書き、横書きと文字種

2007-10-08 22:52:35 | 眼と脳の働き

 縦書きと横書きとではどちらが読みやすいかという場合、眼の構造による生理的な観点からすれば横書きのほうが有利に思えます。
 目が二つ横についているので、視野は左右に広いので横書きのほうが長い文字列が自然に目に入ります。
 したがって、横書きのほうが楽に読めて理解もしやすいのではないか、と考えられそうです。

 どちらが速く読めるかという点については、小中学生では縦書きのほうが速く、年齢が進むにつれて差が少なくなり、大学生ではほとんど差がなくなるという実験データがありました。
 これは、おそらく文字の習い始めは縦書きが多く、学年が進むにつれ横書きに接する機会が増えるためと思われます。
 社会に出ると、ビジネス文書はほとんど横書きですし、広告チラシなども大部分が横書きですから、縦書きのほうが読みやすいという根拠は内容にも思えます。

 一方で、読んだ場合の眼の疲れやすさという点では、客観的な測定基準はありませんが、横書きのほうが疲れやすいという意見はあります。
 普通に考えれば縦書きよりも横書きのほうが、長い文字列が目に入るので疲れないように予想されます。
 逆に横書きのほうが疲れるというのは、生理的な問題よりも経験的な要素が多くかかわっている、ということではないかと考えられます。
 
 たとえば、国語の教科書が縦書きなので、単語(主として漢字語)は縦書きで覚えており、漢字熟語などは縦書きのほうが自然に頭に入るように感じます。
 実際、上の図で見るように、漢字熟語は縦書きのほうが横書きよりも見やすく頭には入りやすいように感じます(誰でもというわけでなく、年代とか経験によって異なると思いますが)。
 ひらがなや、カタカナになれば縦書きのほうが頭に入りやすいというほどではありませんが、アルファベットになるともちろん横書きのほうが読みやすくなります。
 
 図にはありませんが、数字(アラビア数字)になると、これはもう断然横書きが読みやすく縦書きは苦しくなります。
 そういう点では、ビジネス文書や広告チラシは数字が大きな役割を占めているので、横書きでなければならないということが分ります。
 従来の普通の小説や、読み物などは漢字かな混じり文は縦書きのほうが読みやすいと考えられますが、カタカナやアルファベットが多く使われるような文章になると事情が違ってくるでしょう。
 


文字の読み取りやすさ

2007-10-07 23:18:37 | 眼と脳の働き

 一番上の図の線は何本あるか数えようとすると、よほどの集中力が必要です。
 左端から数えていっても、途中で迷うとどこまで数えたか分らなくなってしまうからですが、同じ線が沢山近接しているためです。
 これが二番目の図のように色分けされていると数えるのは楽になります。
 左端から順に一本ずつ数えていっても、上の場合と違って赤い線が目印になるので、どこまで数えたか迷わずにすみます。
 一番上の図の場合は、途中まで来ると多くの線が視界に入るため、脳が情報をうまく処理できなくなるのですが、二番目の図の場合は赤い線で区切られた区間に注意を絞ることができるので、処理が楽になるのです。

 三番目の図ではまん中の部分に眼を向ければ、眼の中心で見ても真ん中に集中している線の数を数えるのは困難です。
 真ん中に視線を向けた場合、左右の間隔の開いた線は、まん中部分を見るときの視力が1.0であるとすれば0.1以下の視力で見ていることになるのですが、数えることができます。
 まん中に集中している線は、はっきりと見えるのですが数えにくく、外側の線はぼんやりしているけれども数えられます。
 はっきり見えても線が集中していると処理しにくいのです。

 図Aは旧字体の漢字を羅列したものですが、字画が多いため眼を動かさないで一度に読み取れる字数は少なくて七文字でも難しいでしょう。
 たとえば左から七文字は「樂」までですが、視線を動かさずに読み取るというのは難しいでしょう。
 同じ漢字でもa図のように新字体であれば、同時に読み取ることができます。
 同じ文字数でも字画が多くて複雑な文字であれば、読取範囲が狭くなり、眼にも脳にも負荷が多くかかるのです。
 旧字体のほうがよいのだという主張もありますが、読み取りやすさという点では、新字体が断然有利なのです。

 同じ旧漢字の文字列でもB図のように途中で色が変わったりしていると、少し読み取りやすくなり、さらにC図のようにひらがなが混ざっていれば、かなり読み取りやすくなります。
 同じように新字体の場合も、文字色を変えた部分を作ったり、ひらがなが混じったほうが読み取りやすくなります。
 辞書などで重要語の見出しを赤くしてあるものがあるのは、その文字を目立たせるというのが目的なのでしょうが、ほかの文字を読むのも楽になるので効果的です。
 同類の文字が切れ目なくつながっていると、一度に読み取れる文字数が少ないのですが、文字列に切れめがあれば、読み取れる範囲が広がり、読みやすくなるのです。
 漢字かな混じり文は、漢字とひらがながお互いに区切りとなって、脳による処理単位を小さくしているので読み取りやすくなっているのです。

 
 


文字の混み具合と読み取り能力

2007-10-06 23:11:08 | 眼と脳の働き

 本を開いて眼から30cmぐらい離して見ると、ページ全体の文字が見えるのですが、いざ文字を読もうとすると、眼を動かさないではっきりと読み取れるのは7文字ぐらいといわれています(個人差はありますが)。
 上の図の一行目のように漢字が並んでいるのを見ると、何気なく見たときはすべての文字が見えるので、全部読み取れているような感じがします。
 しかし、実際に文字を読み取ろうとした場合は、視線を動かさないで読み取れる範囲は7文字程度になってしまうでしょう。

 2行目は7文字になっていますが、これならまん中の「紺」という文字に視線を向けてみれば、何とか7文字をすべて読み取れるでしょう。
 それでも、あまり真ん中の文字に注意を集中しすぎれば、端のほうの文字がぼやけて読み取れなくなったりしますが、眼の力を抜けば一つ一つの文字を視線を動かさず読み取ることができるはずです。

 視線を固定したままでは狭い範囲しかはっきり見えないのは、網膜の視細胞がまん中に集中しているためなのですが、それなら同じ範囲に文字を多く配置したらどうなるでしょうか。
 3行目は2行目と同じ幅の中に、文字を多く配置しています。
 同じ幅の中に多く文字を配置するためには、文字を小さくしなければならないのですが、こうすると、まん中の「益」という字に視線を向けたまま、すべての文字を読み取ることは難しいでしょう。
 つまり眼の中心から離れていない場合でも、文字が小さければ読み取りにくくなってしまうのですが、これは文字が小さいため読み取りにくいのかといえば、それだけの理由ではありません。

 同じ文字の大きさでも、4行目のように文字を間引いて文字数を少なくしてみると、3行目と比べはるかに読み取りやすくなるのが分ります。
 逆に、5行目のように文字を間引かずに、文字間隔をあけると、文字列の幅は広がるのに3行目と比べると文字を読み取りやすくなります。
 
 3行目のように、文字列の幅が狭く目の中心で見ても、文字が小さくて文字間隔が狭く、文字数が多ければ、読み取りにくいのは脳が処理しきれないからです。
 狭い範囲であっても、一度に多くの情報がそこに示されれば、視覚的にははっきり見えても、読み取り作業が困難なのは、脳の処理能力をこえているからです。
 文字が小さすぎると、脳が処理能力に応じて見る範囲を狭めてしまうということになり、その結果、いつのまにか眼を凝らして読み取ろうとするため、眼も脳も疲れてしまうということになります。
 字が細かすぎると感じたら、そのようなものを読まないか、老眼鏡を使用するなどして無理を避けるのが賢明です。

 

 


瞬間視と周辺視野

2007-10-02 22:35:02 | 眼と脳の働き

 スクリーンに文字を表示してすぐに消します。
 表示時間が一秒程度であれば図Aのように文字ははっきりと見えますから簡単に読み取ることができます。
 表示時間が百分の一秒程度になると、あっという間に文字が消えてしまうので、ウッカリすると何という文字か読みそこなったりします。
 注意していればそれでも読み取ることはできますが、たいていの人は表示された文字がB図のようにぼんやりと見えたことに気がつきません。
 すぐに消えてしまったので、はっきり見損なったと思うからです。
 はっきり見損なったといえばそうなのですが、はやく消えたということは、光の刺激がそれだけ少なかったということで、ぼやけてしか見えないのです。

 表示時間が少なければ少ないほど、目に入る刺激は少ないのでぼやけて見えてしまうのですが、このことは本のページめくりをしてみれば実感できます。
 図のように右手で本の背を持ち、左手での親指の腹でしごくようにめくった場合、200ページの本を五秒ぐらいかけてめくった場合は、文字ははっきり見えるように感じます。
 ところがめくるスピードを速くしていき、一秒以下でビュッとめくった場合は、文字は薄く見えます。
 印刷されている文字自体が薄くなるのではなく、各ページの文字が見える時間が瞬間的であるためぼやけて見えるのです。

 文字が表示されてから、それが見えたと意識されるまでにはおよそ0.2秒程度かかりますが、百分の一秒しか表示されない場合は、見えたと思ったときには、その文字はもう消えています。
 それでも文字を読み取れるのは、表示された文字が短期的に記憶されているからですが、この短期記憶(アイコニック・メモリー)は0.5秒ぐらいしか続きません。
 瞬間的に表示された文字を読み取るためには、ぼんやりした文字でも読み取れるという能力と、すばやく持っている文字記憶と照合する能力が必要です。

 ぼんやりした文字でも読み取れるということは、その文字が完全な形でなくても読み取れるということで、眼の中心でとらえた文字でなく、周辺視野でとらえた文字も読み取れるということでもあります。
 周辺視野でとらえた文字もすばやく読み取れれば、一度に読み取れる文字の数が増えるので、文字を読むときの眼の負担と脳の負担を軽くすることになります。
 文字を瞬間的に読み取る能力自体は練習で向上するので、瞬間視の練習は文字を楽に読むことにつながります。


周辺視野で見る

2007-10-01 23:06:00 | 注意と視野

 上の絵はレンブラントの「夜警」という絵です。
 この絵は夜の光景であると思われていたこともありましたが、実際は昼の絵です。
 まん中部分が明るくはっきり見え、周辺部分が暗くぼんやりしていることから夜の光景と思われていたのですが、うえから光が降りてきていて、昼の光景なのです。
 昼なのに周辺部分がぼんやりと描かれているのは、眼でものを見たとき、まん中部分ははっきり見えるが周辺部分はぼやけて見えるということを表現しているためだとされています。
 私たちが普通に眼を開けてものを見ているときには、まん中の部分だけがはっきり見えるという意識はなく、周辺部分もはっきり見えているように感じています。
 これはものを見ているとき、一点を凝視するのではなく絶えず頭や目を動かしているためで、視線を向けた先はいつもはっきり見えているからです。

 下の最初の文字列を見ると、すべての文字がはっきり見えるように感じますが、これは無意識のうちに視線を動かして全体を見ているためです。
 ためしに行の先頭部分に視線を固定してみると、途中からどんな文字が表示されているのか分らなくなります。
 周辺部分が暗く見えるわけではないのですが、ぼんやりして文字の見分けがつかなくなるので光が足りないように見えるのです。
 実際は眼の視細胞が中心部分に集中し、周辺部分にはまばらにしかないので、光の刺激を受ける量が少ないのでぼんやりとしか見えないのです。

 文字列の真ん中の部分(SとAの間)に視点を固定して、じっと見つめると中心の五文字ははっきりと見えますが、中心から離れた部分はぼやけて見えます。
 極端に言えば二行目のように左右の両端が薄く、光の刺激量が足りないように見えます。
 目の中心から離れた部分は、視細胞まばらなので光の刺激量が足りないのと同じような見え方になるのです。
 焦点がまん中に合わせられているので、左右両端は焦点から外れてもいるので読み取りにくくなっているのです。
 
 三行目は見るときの焦点をまん中部分に合わせるのではなく、左右両端部分に焦点が合うようにしてみた場合の見え方を示したものです。
 まん中部分は焦点が合っていないので、ぼやけて見えるのですが視細胞が集中しているので読み取ることができ、周辺部分は視細胞がまばらでも焦点があっているのではっきり見えます。
 焦点を合わせ、中心部分で見ればはっきり見えて一番読み取りやすいのですが、そうすると読み取り範囲が狭くなりすぎます。
 そこで周辺視野でも文字を読み取れるようにするのですが、そのためには周辺視野に注意を向け、焦点を中心部分からはずしていわゆる反り眼(ソフトフォーカス)で見る必要があります。