「あかぬける」という言葉は「きが利いている」とか「粋である」というような意味ですが、語源的には「垢抜ける」だそうです。
「垢抜ける」というふうに漢字を当てれば語源を表現できますが、肝心の語意はおかしな感じになります。
「垢抜ける」では、「垢抜けていない」普通の人は垢だらけといった感じで、違和感があります。
「垢抜けた表現」などのように形容される対象が人間でなければ、何となくおかしな言い方になるので、「あかぬけた表現」としたいところです。
「あかぬける」の場合は語の意味の変化が少しなので、違和感はそれほどでないですが、「いきなり」のように語源と語意のずれがおおきいと当惑します。
「いきなり」は語源的表現では「行き成り」で「いいなり」、「それなり」と同型の表現で「成り行きまかせ」という意味です。
「成り行きまかせ」と「急に」では意味の隔たりが大きく、急に「急に」という意味だとなると当惑するのです。
「いかさま」は語源的には「如何様」で「いかにもそのとおり」という意味であったのが、現代では逆の意味で「(そのとおりに見えて実は)インチキ」というふうに逆転しています。
「しあわせ」も語源的には「仕合せ」で「めぐりあわせ」あるいは「なりゆき」の意味で「ハッピー」というまでの意味ではありません。
「幸せ」と書いた場合でも「幸」はもとは「手かせ」の意味で良い意味ではなく、あとで「手かせ」をはめられた状態から脱するという意味で「幸運」となったものです。
「お愛想」にしても文字面を見て「勘定」という意味だとは思えないでしょう(「不愛想」な店の主人でも勘定の段階では愛想がよくなるということだとすればつながるような感じもしますが)。
発音は変化しても語形は元のままであるべきだ、という考え方からすれば語源を明示するような表記が望ましいということになりますが、このように語の意味が変化したりすると、語形を保っていればかえって混乱するということもあるのです。
漢字が表意文字であるといっても、いつでもそうであるわけではなく、注意してみると何気なく使っている漢字が言葉の意味と結びつかない例はいくらでもあります。
「無茶」や「世話」は「茶」や「話」とは関係なく、「突慳貪」の「慳貪」(けちで欲張り)は「つっけんどん」とどう関係するのか分りません。
「やぼ」を「野暮」と書いて「暮」はどういうかかわりかとか「くらげ」の「母」はどういう意味かなどと考えても無駄な気がします。
文字表記は音声に比べて変化しないので、変化しないことに価値があるというふうにいうこともできますが、意味とのずれが激しくなればそうとばかりいってられません。
言葉は生きていなければならないので、脱皮する必要があり、当座は仮名などによる、音声表現にしておいたほうが無難な場合があるのです。