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カタカナ語と漢字

2007-10-29 23:19:46 | 言葉と文字

 たとえばドライバーというカタカナ語は、運転手とかねじ回しとか、ゴルフのクラブあるいはコンピュータのマウスの制御プログラムなどの意味で使われます。
 英語としてはdriverで同じ言葉なのですが、日本人は別の言葉だと感じています。
 英語のdriverが運転手とねじ回しの意味をあわせ持つということは、運転手とねじ回しに意味の共通性を感じているからです。
 ところが日本語で、運転手とねじ回しという言葉を並べても、同じグループの言葉とは感じられないので、カタカナ語で同じドライバーという言葉を使いながら、もとは同じ言葉だというふうに感じないのです(strikeの場合など同じ言葉なのに片方がなまってストライキと発音されると同じ語なのにストライクと別の単語として日本では流通してしまっています)。
 もしdriverを「運転手」と日本語に訳しても、その日本語の「運転手」は「ねじ回し」と意味的に結びついていないので本当の訳ではないということになります。
 
 外国語を取り込もうとすれば、どうしてもこういうことは起きることで言葉の意味の全体でなく、つまみ食いのような形になるのは避けられないことです。
 日本語の場合には、漢字に音読みと訓読みをあてがっているので、何となく漢字と日本語はうまく結びついているような感じがしますが、必ずしもそうではありません。
 たとえば「遊」という漢字には「ユウ」という音読みに「遊ぶ」という訓読みが当てられているので、ほとんどの人は「遊」が「遊ぶ」という意味だと思っています。
 ところが「雲白く遊子かなしむ」というときの「遊子」は遊んでいる子供ではなく「旅人」です。
 「交遊」の場合は交際のことで、「遊泳」の場合の「遊」は泳ぎです。
 「遊説」とか「外遊」といった言葉は誰しも眼にしているのですが、政治家は遊んでいるから「遊説」とか「外遊」すると思っているわけではないのに、「遊」がどういう意味なのか意識することがありません。

 日本語の「きる」は「切る、斬る、伐る、剪る」などの意味をもっているのに、特定の漢字で書いてしまうとほかの意味とのつながりが失われてしまうので、日本語としては「きる」とひらがなで書いたほうがよいという意見もあります。
 「メンチをきる」という言葉が最近使われましたが、メンチは「面」のことで歌舞伎などで顔をぐっと向けて見る動作(面をきる)からの言い方だと思いますが、漢字では表現しにくく「きる」とせざるを得ません。
 漢字なら日本語とうまく対応しているというわけではないのです。

 カタカナ語では日本語式の発音となるのでフードといえばfood(食物)、hood(頭巾)ちがう言葉が同じに聞こえてしまうので、カタカナ語はなるべく避けたほうがよいなどとも言われます。
 しかしよく例に出される「市立」と「私立」にしても中国式の発音なら「市」と「私」は発音が違うのに、日本式では同じになるための現象ですが、まるで違う言葉が日本式の発音では同じに聞こえるのです。
 「コウエン」というような例で見れば、同じ発音ではいくつもの言葉があるのですから英語などの場合より漢字のほうがはるかに激しいのです。