60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

発音の表示が苦しい旧仮名遣い

2007-10-15 22:48:55 | 文字を読む

 「狩人」は「カリウド」とも「カリュウド」とも読まれます。
 現代仮名遣いではそれぞれ「かりうど」「かりゅうど」と表記できますが、旧仮名遣いではどちらも「かりうど」となります。
 旧仮名遣いでは「カリウド」という読み方を表記できないのです。
 広辞苑では現代仮名遣いの見出しとともに、旧仮名遣いの表示が示されますが、「かりゅうど」が見出しのときは「カリウド」と旧仮名遣いの場合の表示が横にしめされます。
 意味は「⇒かりうど」として「かりうど」の見出しで引くように指示されます。
 そこで「かりうど」をひくのですが、「カリウド」の見出しのときは旧仮名遣いによる表示は示されません。
 つまり「かりうど」の旧かな表示はやはり「かりうど」だからです。

 同じようなことが「仲人」、「若人」、「頬」についてもいえます。
 旧仮名遣いでは「なかうど」、「わかうど」、「ほほ」と表記して「ナコウド」、「ワコウド」、「ホウ」と読ませるので、「ナカウド」、「ワカウド」、「ホホ」という発音に対する表示を別に作ることができないのです。
 もともと仮名というのは、音標文字なので発音に近づけた表示をするのが目的です。
 したがって、旧仮名遣いの「なかうど」はかつては「ナコウド」ではなく「ナカウド」と発音されていたのです。
 現代になっても「ナカウド」という発音が残って、「ナコウド」という発音と共存しているため、旧仮名遣いは両者を書き分けることができないというジレンマに陥るのです。

 「白梅」は「しらうめ」と表記し、「シラウメ」と発音するのは、現代仮名遣いも旧仮名遣いも同じです。
 旧仮名遣いだからといって「シロウメ」と発音しないのは、「白」と「梅」の合成語なので「シロ」+「ウメ」と発音するのだと説明されます。
 ところが「木瓜」あるいは「胡瓜」は「キウリ」でなく「キュウリ」と発音されるので原則は崩れます。
 「ゴーヤ」の別名「苦瓜」は旧仮名遣いでも「にがうり」と表記され、発音も「ニガウリ」であって「ニゴウリ」ではないということになるはずですが、実際には「ニゴウリ」と発音している地方があります。
 旧仮名遣いは発音と違う表記をするとしたため、発音を表現するのに不便なのです。

 旧仮名遣いは古い時代の発音を表記しているので、もともとの単語の意味を示すことができて合理的だという例で、百人一首の「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも あふさかの関」というのがあります。
 「あふ」は「逢う」で「あふさかの関」は「逢坂の関」なので言葉の重なりが見え、これを現代仮名遣いで「おうさかの関」とするとなんだかわからなくなるといいます。
 しかしこの歌が作られたときは「あふさか」は「アフサカ」と発音されて、「オウサカ」と発音されていたのではないので、発音どおりの表記だったということに過ぎません。
 
 「わが庵は 都の巽 しかぞすむ よをうしやまと ひとはいふなり」という歌では「うし」を「憂し」と「宇治」とにかけているのですが、「宇治」は旧仮名遣いでは「うぢ」であって「うじ」ではありません。
 「よをうぢやまと」と書いている例もありますが、「宇治」のほうが助かっても「憂し」のほうが助かりません。
 旧仮名遣いならもともとの単語の意味が明示されるとは限らないのです。