60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

周辺視野と眼の動き

2007-10-09 22:44:22 | 文字を読む

 文章を読んでいるとき、視線は活字の上を順に滑らかに動いているように思うかもしれませんが、実際はあるところに留まった後、ジャンプして前方に進みます。
 図Aは、コンピュータ制御の視線追跡装置を使って、視線の動きを調べた様子を示したものです。
 A図では眼が停留する地点を小円で示し、次の停留点への眼が跳躍する動きを矢線で表わしていますが、停留する時間は一定ではありません。
 B図は小円の大きさで停留時間の長さを表現したもので、眼が留まる時間は文字あるいは単語によってかなりの差があります。
 
 単語の上に眼を留めているのは、読み取った単語と頭の中にある記憶と照合していて、意味が分れば次に進むというふうに解釈されています。
 したがって見慣れていて易しい単語であればすぐに照合でき、難しくて見慣れていない単語なら照合に手間取ると考えられます。
 停留時間の差は読み取りやすさの差であるということです。
 しかし、易しいとか、見慣れているとかいう事は個人差があって、ある人にとっては難しく見慣れない単語でも、別の人には易しいということがありますから、停留時間は読む人によって違うということになります。

 個人差は停留時間だけでなく、どこに停留するかという点についてもありますし、また跳躍距離についてもあります。
 文字を読みなれない人はすべての単語に停留したりするので、跳躍距離は短いのに、読みなれた人は跳躍距離が長くなります。
 
 視線の動きはジャンプしながら進んでいくというのですが、それではジャンプして次の停留点はどうやって決まるのかという問題があります。
 視線がある点に停留しているとき、次の停留点が見えていないことにはジャンプしてどこに着地してよいか分りません。
 したがって停留点では、眼に入った単語と頭の中の記憶とを照合するだけでなく、次の停留点を探っているのです。
 そうすると、現在停留している地点を見ているだけでなく、周辺視野にある次の停留点が見えていなければなりません。
 現在停留しているところに集中しすぎてしまうと、次の停留点を見つけることができていないので、改めて次の停留点を探さなくてはなりませんから、それだけ余分な時間がかかります。
 文章がスムーズに読めるためには、一つ一つの単語に集中しすぎないことと、周辺視野がはっきり見えなくても、無意識のうちに次の停留点が決まる程度には活性化することが必要なのです。
 
 


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1 コメント

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漢字と假名の遣ひ分け (野嵜)
2007-10-17 23:29:20
度々失禮します。

日本語においては、意味を示す語は漢字、文書構造や文法的機能を示す語はかなで書く、と云ふ漢字假名交じりと云ふ書き方が一般的です。文章の意味は、概念を示す單語と、その單語の格などを示すてにをはとの組合せで表現される訣です。
適切に漢字が用ゐられてゐるならば、その文章は讀み易いものとなつてゐると思ひます。昨今、飜譯書では殊に非道い事になつてゐますが、不自然なまでにかな書きして紙面を白くして、それで「読みやすい」と稱してゐる本が多くなつてゐるやうに思はれます。如何なものかと思はれます。

漢字の部分を重點的に見て、仮名の部分はぱつと見で飛ばして行く、と、そんな讀み方が出來れば、スムーズな讀みが出來るものではないかと思ふのですが。


で、その「かな書きする語」でこそ歴史的かなづかひが意味を持つのでして、「は」「へ」「を」等が發音とは無關係にかなづかひに從つた書き方がされるのは、要はぱつと見で認識可能であるからで、それで輕く讀飛ばされて、重要な單語に目が行く事になると。さうした「輕く讀み飛ばされる」べきだが、讀飛ばされても頭では一往認識されてゐて、それで概念と概念の關係が理解されるのに役立つ、そんな風な語は「は」「へ」「を」だけに限られず、てにをはと言はれて來た語、即ち助詞・助動詞・用言の活用語尾が一般に當嵌ると考へられる訣で、それら「てにをは」の類は「發音通り」でなくかなづかひに從つた書き方をされた方が讀み易くなるはずだ、と云ふのが「我々」正かな派の主張であると――

長々と書かせていただいてすみません。
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