新仮名遣いは語源を分りにくくしてしまうといわれます。
たとえば、「躓く」は旧仮名遣いでは「つまづく」で、これはつま(爪)つく(突く)のいみなので「つまずく」としてしまうと「ずく」では(突く)の意味が伝わりません。
漢字かな交じり文では、表意文字である漢字が意味を担当し、仮名は表音文字として機能するのですが、「躓く」は難しい漢字なのでルビを振るか、仮名表示するのが望ましいということになります。
仮名表記した場合、「つまずく」では具合が悪いという事になるというのですが、普通の人は「つまずく」と書いたのを見て、意味が分からないということはありません。
しかし語源が分りやすい「つまづく」のほうがよいという主張が当然あります。
それでは「躓く」が難しい漢字なので、「爪突く」というふうに語源に忠実に書けば、一番分りやすいのではないかとも考えられるのですが、何か変な感じがします。
「爪突く」という表現では何か突き指をするような感じがするので、違和感があります。
「爪突く」という漢字表現が一般化しないで、「躓く」という難しい漢字のほうが一般化していたのは、語源はともかく「躓く」のほうがふさわしい表現と見なされたからでしょう。
「頷く」や「跪く」の場合も同じで、多くの人にとって「項突く」「膝ま突く」は、単に見慣れないというだけでなく、直感的に分りにくいので、難しい漢字の「頷く」や「跪く」に取って代わられたのでしょう。
現在使われている和語は、だいたい耳で聞いて意味が分かる言葉なので、強いて漢字にする必要はもともとありません。
語源が分ればそれはそれで興味をそそることはあっても、使用上はプラスになるということはありません。
「躓く」にしても「頷く」にしても耳で聞けば意味が分かるので、表音表示で十分です。
語源を意識しなくても分るのですから、強いて語源を示さなくてもよく、語源を意識するとかえって意味が分かりにくくなるのでは、語源表示は興味深くはあっても使用上はマイナスです。
「いなずま」も「さかずき」も聞いて分る言葉で、旧仮名遣いに習熟している人には気持ちの悪い表示かもしれませんが、新仮名遣いに慣れている人にとっては抵抗はありません。
複合語の語構成が「一本釣り」のように明らかな場合は「いっぽんずり」でなく「いっぽんづり」と表記しますが、この場合は漢字表示しても語構成がはっきりしているので、それにあわせた表記になっています。
そこで「一本調子」も「一本」+「調子」なので「いっぽんじょうし」でなく「いっぽんぢょうし」としています。
ウッカリすると旧仮名遣いでも「いっぽんぢょうし」としかねないのですが、「調子」は「てうし」なので「いっぽんでうし」です。
ところが「一帖」は「一」+「帖」なのに「いちぢょう」でなく「いちじょう」としています。
この場合は「帖」が「ちょう」でなく「じょう」で旧仮名遣いでは「てふ」でなく「でふ」だからです。
漢字の単体読みが二通りあるため紛らわしいのです。
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