60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

カナ書きのほうが分りやすい場合

2007-07-15 22:50:30 | 文字を読む

 日本語は同音異義語が多いので漢字で書き分けないと意味が通じにくいということがよく言われます。
 たとえば「コウエンにいく」というとき「公園にいく」「講演にいく」「後援にいく」「口演にいく」のどれなのか、音声で聞いただけでは分かりにくいと言うのです。
 こういう例は文章で示されると一見もっともなのですが、普通の会話ではそのときの状況で意味が分かるので迷うことはありません。
 言葉をしゃべるときいちいち漢字を思い浮かべながらしゃべるという場合は少なく、聞いているほうも漢字を思い浮かべるということはあまりないでしょう。
 良く例に出される「私立」か「市立」かを分かるように「わたくしりつ」「いちりつ」と漢字にした場合の別読みで表現するというのも、「私立」をわざわざ「しりつ」と断る必要はないので、ふつうは「しりつ」わざわざ言うときは「市立」です。
 同音異語で紛らわしいとき、漢字でどう書くという説明が便利なことは確かですが、漢字を知らない相手にはほかの方法で説明するしかありません。

 同音異義語が紛らわしいというのは、文章の中で使われたときのことで、文章の場合は会話と違って状況に対する共通理解がないので、文字面だけから理解しなければならないからです。
 書かれた文章を理解させるにはカナだけより漢字表現のあったほうが情報量が多くなるので有利だということなのです。

 それでは漢字で書けば必ず有利なのかといえばそうともいえません。
 図のように同じ漢字表現でも読み方が変わると、意味が変わると言う例が漢字熟語でもたくさんあります。
 「一行」と書いてあって「いっこう」と読めば「行い」の意味か「銀行」か「集団」かなど文脈から判断できます。
 ところが文章について「一行を読む」とあれば「いちぎょう」か「ひとくだり」かわかりにくいのでむしろカナで書いてあるほうが分かりやすいのです。

 「一味」は「いちみ」は盗賊一味のように使われると思うと、「ひとあじ」とまぎれることはないと思うかもしれませんが、「一味をくわえる」という場合「いちみとうがらし」なのか「ひとあじ」なのか分かりません。
 「一分」は「男の一分」というときは「いちぶん」ですが「一分自慢」というときは「いちぶ」で、「一割」の意味のときは「いちぶ」でも「いちぶん」でもよいのですからまぎらわしいものです。
 「好事」は「好事家」というときは「こうずか」ですが、「好事魔多し」というときは、ほんらい「こうじ」なのに「こうず」と慣用読みされてしまっています。

 「小人」の場合は「しょうじん」と読めば「小人物」だけでなく「子供」「こびと」「小者」などの意味を持つ多義語ですが、一般的には「小人物」の意味です。
 「しょうにん」は辞書では「こども」の意味ですが日常生活では「小人(しょうにん)」を「こども」と読んでいます。
 「こども」や「こびと」を漢字で表現すると紛らわしいのです。
  漢字表示では意味が紛らわしく。音声(読み)を参照して意味がはっきりするという場合もかなりあります。
 だからといって実際に音読しなければならないというわけではなく、ルビを振ることによっても解決することが出来るかもしれません。


漢字の意味の無視

2007-07-14 23:24:48 | 文字を読む

 健忘症というのは物忘れが激しい症状のことですが、「健」の意味が「健康」の「健」と同じと考えると意味は通じません。
 この場合の「健」は「はなはだしい」という意味なのですが、たいていの人は「健やか」の意味しか思い浮かばないでしょう。
 「健啖家」という言葉は「盛んに食う人」という意味ですから、「盛んに」とか「おおいに」という意味もあるということなのですが、そこから「盛んに忘れる」という風に類推できないことはありません。
 それでも「盛んに」はポジティブな意味なので、「健忘症」というのはヘンな語感です。
 たいていの人は「健忘症」という単語を見て「健」の意味に注意を払わず、単語の意味を全体的に「はなはだしい物忘れ」と受け取っているのです。

 「殺人」といえば「殺」は「ころす」という意味ですが、「殺到」、「相殺」、「殺風景」というときの「殺」の意味はどういう意味かと聞かれれば、「ハテ」と戸惑うのではないでしょうか。
 「悩殺」といえば文字通り「ころす」ということではなく比喩的な意味です。
 「抹殺」という場合の「殺」は「ころす」という意味だけでなく比喩的な意味の「けす」という意味もあります。
 「けす」という意味から「へらす」に意味がつながり「相殺」という言葉が連想できます。
 「殺風景」の場合は「すさんだ」という意味で「殺伐」などとともに、「ころす」の比喩的表現と言えなくもありませんが、自然に連想されるというわけではありません。
 「殺到」の場合は「いっぺんに」という意味で、「ころす」→「ひどい」ということから連想できなくもないですが、かなり無理です。

 「警句」の「警」は「シャープ、鋭い」の意味で、警告、警戒、警報、警官などの「いましめる、とりしまる、ようじんさせる」などといった意味とはちがうので、連想しにくい意味です。
 「角力」は「相撲」のことで角は「くらべる」で「かど」や「つの」と関係があるといえば言えるという程度で、知らなければ連想できません。
 「親告罪」の「親」は「みずから」で「おや、したしむ」といった意味に近いといえば近いですが、「おや、したしむ」から自然に連想できる意味ではありません。

 「落成」の「落」は「できあがる」の意味で「落城」は字が似ても「(比ゆ的に)おちる」意味で、「集落」、「村落」のばあいは「ひとがかたまってすむ」といういみですから、意味のつながりを見つけるのは困難です。
 「落」という文字を見れば意味が分かるのではなく「落成」「落下」「集落」といった熟語の意味をそれぞれに覚えておかなければとても不便です。
 
 このような例から分かることは、漢字熟語の意味はそれぞれ構成している漢字の意味と結び付けて覚えているとは限らないということです。
 むしろ熟語の意味を全体として捉えていて、個々の漢字の意味がどんな意味かを気にすることなく使っている場合が結構あるのです。
 
 


漢字制限と多義的漢字

2007-07-10 23:13:47 | 言葉と文字

  かつては「月食」と書かず、「月蝕」と書くのが普通でしたが、現在では常用漢字で「月食」とするのが優勢となっています。
 「月食」ではいけないという人もいますが、「月食」ではまちがいということではありません。
 「蝕」のほうは虫が食いかじるという意味に特化しているので、「日蝕」や「月蝕」にふさわしいような感じがします。
 「食」は「たべる」が主な意味でそこから派生して「くらう」「やしなう」「食い欠ける」「(食べて)なくす」といった意味が出てきています。
 「食禄」「朝食」「食客」「大臣の食言」「食い違い」「食指を動かす」など「食」は多義的です。
 「蝕」という字が出てきたら「ゲッショク」はそちらに任せたほうが「食」の多義性が緩和されるのですが、「蝕」を常用漢字外として避けるとまた「食」を使うようになるのです。
 
 「キダイのワル」などというときは「稀代」だったのですが、常用漢字外なので「希代」と書くようになっています。
 「稀」は「まれ」というような意味しかないので「希代」と多義漢字を使わず、「稀代」としたほうがスッキリする感じです。
 「母」も「母親」「酵母」「航空母艦」「母国」「母音」など多義的なので、「拇指「拇印」など「おやゆび」という意味しかない「拇」にまかせたほうが良いように見えます。

 「委」も「委譲」「委棄」「委任」「委細」など「委」の意味が分からなくても組み合わせた文字の意味から熟語全体の意味がわかりますが、「委」がどうしてこれらの意味を持つのかはわかりにくいでしょう。
 「萎」のほうは「なえる」という意味なので「萎縮」という熟語に適合的です。

 「ヤマトコトバ」は数が少ないので、「あげる」とか「さげる」「とる」など、それぞれ漢字を何種類も当てることが出来るように多義的です。
 漢字は何万種もあるので、多義的な文字など必要があまりないのではないかと予想されるのですが、実際はそうでもありません。
 実用的にはあまりたくさんの文字を用意するより、類似の音とか意味の文字を兼用したほうが使い勝手が良いということもあります。
 また言葉の意味はどうしても変化していくので、そのたびに文字を作るということも大変なことで、収拾がつかなくなります。

 日本では以前はなるべく難しい漢字を使う傾向でしたが、このごろはなるべく使う漢字を少なくしようとしてきています。
 使う漢字を少なくしようとすればどうしても、ひとつの漢字で多くの意味を表さなければいけなくなります。
 漢字の種類を少なくしても、ひとつの漢字についていくつもの意味を覚えなくてはならないので、脳の負担が少なくなるとは限りません。
 ひとつの漢字についてひとつの意味しか覚えていなければ、文字を読めても意味は分からないという状態になりかねないのです。


ゆるやかな漢字と意味の対応

2007-07-09 23:05:44 | 言葉と文字

 現在新聞などで使われている常用漢字表記による熟語は、見慣れてしまっているので特段不審に思われないかもしれませんが、良く見ると不自然なところがあります。
 図は元来の表記と対照させたもので、右側が伝統的表記で常用漢字外の漢字が使用されています。
 一番左の例は元の漢字の基本部分だけを使ったもので、音が同じで、意味が似通っているので代用されるものです。
 
 「希少」の「希」は普通の感覚では「希望」という使われ方から「ねがう」という意味が思い浮かびますが、「まれ」という意味もあって、「稀」と同じ意味もあります。
 「まれ」という意味では「稀少」のほうを使ったほうがすっきりするような気がしますが、漢字を少なくしようとして「希少」が使われているのです。
 保母の「母」も実の母親の意味だけでなく、親に代わる女性「姆」の意味もあるので、実際の親でなくても「保母」という表現を使っています。
 「日食」の「食」も「蝕」と同じように「むしばむ」という意味もあるので、こちらのほうを使っています。
 これらのことは漢和辞典を引いてみて分かることで、普通の人の感覚では漢字の意味を聞かれたら「アレッ」と思うのではないでしょうか。
 「車両」の「両」も「輛」と同じく車を数える単位の意味があるので良いのですが、
「蒸留」の「留」は「とめる」の意味で「溜める」の意味ではないのですから、意味が近いといっても代用には無理があります。

 真ん中の例は漢字の偏の部分を取り替えている例で、普段見慣れていておかしいと思わないかもしれませんが、意味的には右側の常用外のほうが素直です。
 「註釈」は「説明」の意味ですから「注釈」とするより視覚的にはピタリと会う感じです。
 「暖房」は火を使わない感じですし、「補佐」は助けるより、補うような感じでしっくりきません。
 「模」は「かたどる」、「摸」は「まねる」で「模索」より「摸索」のほうが妥当に見えます。
 
 右側の例は代用文字の音が同じで熟語の意味が似ている例で、文字同士は通じていない例で、「いいのかなあ?」と思われるものです。
 「迷」は「まよう」「冥」は「くらい」なので、いみにずれがありますし、「後」は「おくれる」「伍」は「隊列」で、やはりずれがあります。
 「碇」は「イカリ」をおろすことで「停」は「とまる」で似てはいるがかなり違う感じです。
 
 これらの例は注意してみたり、調べてみるとおかしな感じがするのですが、日常的に読んでいるときにはノーマークです。
 おそらくほとんどの人は書くとすれば常用漢字のほうで書くでしょう。
 音声で聞いて、常用漢字外の漢字のほうを思い浮かべるという人は少ないはずです。
 つまり文字ごとに厳格に使うことはなく、アバウトな使い方をしているのです。
 言葉をしゃべるとき漢字を思い浮かべてしゃべる、というようなことは学者ならともかく、普通の人には当てはまらないといえます。


出来れば略字

2007-07-08 22:41:15 | 眼と脳の働き
 左上の図はいわゆる新字体と旧字体を対照させたものです。
 新字体(または略字体)についてはいろんな批判があるようですが、現在ではこれが普及して、普通の人にとっては新字体のほうが馴染んでいるので、右側の旧字体のほうは違和感があって読みにくいのではないでしょうか。
 漢字が出来た頃は極端に複雑な文字はなかったのでしょうが、漢字の開発が進むにつれて複雑なものが積み上げらてきたものと思われます。
 複雑な文字が膨大に集積されれば、実用的には不便になるので、常用される漢字が簡略化されるのは当然です。

 字形が極端に複雑になれば、正確に覚えるのは大変で、書くことが難しいだけでなく、よう場合でも脳の負担は大きくなります。
 憂鬱とか躊躇といった文字は読めたとしても、文字の細かい部分まで見分けているわけではなく、全体的な印象として記憶されていて、アバウトな照合をしているのです。
 細かい部分まで見分けようとすれば、眼と脳に大きな負荷がかかりますし、全体的に判断する場合でも、字画の少ない文字に比べればやはり、脳と眼の負担になりつかれやすくなります。

 新字体のほうが脳や眼に負担をかけないといっても、新字体は旧字体にあった文字同士の関係を壊してしまうので、漢字の体系を混乱させているという批判があります。
 たとえば森鴎外の鴎という字の「区」の部分は本来は「區」なのですが、「かもめ」は常用漢字として鴎となったので、鴎外となっています。
 そのほか「欧州」「殴打」なども常用されるということで「区」になっていますが、常用漢字に入っていない「謳歌」「嘔吐」「嫗」などは「區」となって首尾一貫していないというのです。
 「區」の部分は「おう」という読みを与えているので、文字によって「区」を使うというようなことをせず、全部「區」にしたほうがよいというのです。

 ところが「區」あるいは「区」は「おう」という読みだけでなく「く」という読みもあり、また「悪の枢(樞)軸」のように「すう」という読みもあります。
 意味的にも「區」は「小さな区切り」ですが「欧州」や「鴎」は音だけで意味はなく、「殴打」「嘔吐」「謳歌」「嫗」の場合は「小さくかがむ」、「枢」の場合は「じく」ですから全部一律というわけではありません。
 すべて「區」にしないと一貫性がなく不便になるというわけではないし、すべて「区」としてはだめだということでもありません。

 「寿」と「壽」の場合も「壽」の部分を「寿」にしたところで指し達不便はないと思います。
 「波濤」を「波涛」としたり、「範疇」を「範畴」とするとそんな字は読めないという人もいますが、使っている人もいるのですから定着するかどうかの問題です。
 「躊躇」の場合は「寿」とする例は見かけませんが、「躊躇」という語が好く使われるのなら「足」+「寿」という字になっても差し支えはないと思います。
 眼と脳を必要以上に疲れさせないためには、できるだけ略字体を多用したほうが良いのです。
 

漢字の瞬間的判断

2007-07-07 22:25:12 | 眼と脳の働き

 スクリーンに「萩」という字が表示されたらすばやくボタンを押す場合、表示からボタンを押すまでの時間は0.2秒から0.3秒程度です(人によって違い、また集中しているかどうかで違います)。
 ところが表示される文字が「萩」か「荻」で荻が表示された場合はボタンをすぐに押さず1秒以上たってから押すことにすると、「萩」だけが表示される場合に比べ、0.1秒以上遅れます。
 「萩」か「荻」かを判断するのに余分な時間がかかるためですが、ボタンを押すように筋肉に指令が出され、ボタンが実際に押されるまでの時間が約0.2秒とすれば、文字を見て判断をするのに0.1秒以上かかるようです。

 漢字は千分の一秒表示されただけで何という漢字か判別出来るとされていることからすれば、「萩」か「荻」かを判別するのに0.1秒(千分の百秒)以上かかるというのはおかしいと思うかもしれません。
 しかし、千分の一秒表示された文字でも、短期視覚記憶(アイコニックメモリー)は0.5秒程度持続するので、その間に記憶との照合は出来ます。
 表示されたのが千分の一秒だからといって、判断という脳処理は千分の一秒で完了したわけではないのです。
 実際の判断に0.1秒以上かかっていてもそのように意識されないだけなのです。

 右には「シ」と「ツ」と二種類の文字が並んでいますが、「ツ」の字がどこにいくつあるか、瞬間的には判断できないでしょう。
 「シ」と「ツ」が紛らわしい字体なので、パッと見ただけでは判断できないでしょう。
 これがもし「シ」が赤で、「ツ」が青となっていればパッと見ただけで赤の数はすぐに判断できます。
 青か赤かという感覚的な判断だけなら瞬間的な判断ができるのですが、「シ」と「ツ」のうちのどちらかを見分けるということになると、時間がかかるのです。
 
 隣の図では「萩」と「荻」が入り混じっているのですが、この場合もパッと見ただけで葉「荻」がどこにいくつあるかを判断することは出来ないでしょう。
 漢字なら判別が楽だということではないのです。
 複雑な形のほうが判別しやすいということでは必ずしもなく、簡単な形のほうが判別しやすいということも必ずしもいえないのです。
 「赤」と「青」という色のように簡単に見分けられる要素があればそれで瞬間的に反応できますが、なければ時間がかかってしまうので、短時間では判断できないのです。
 
 


類似色のストループ効果

2007-07-03 23:13:20 | 言葉の記憶

 ストループ効果というのは、文字を見ると自動的に音読しようとするため、文字の色を言おうとしても、文字の読みが干渉してつかえたり、間違えたりするとされています。
 文字の色を言おうとするのに、文字の読みが競合して干渉するというのは、文字の色を答えるの自動的かそれに近いということを前提にしています。
 「赤」「青」「黄色」「緑」のように、文字の色を見分けるのが楽に出来て、文字の色に注意を集中しなくても文字の色を答えられます。
 そのため文字の形のほうに注意が向けられ、それにつれて文字が自動的に読まれるため文字の色と競合してくるのです。

 もし色が簡単に見分けられないとすれば、どうしても色自体に注意が向けられますから、文字の読みのほうに向けられる注意は少なくなります。
 簡単に見分けらなければ文字の色を答えようとしてもすばやく出来なくなるのですが、これは文字を音読してしまいそうになるのを抑制しようとするからではありません。

 上の例では青系統の色だけを使っていて、文字の色を答えようとすると、詰まってしまって早くは答えられません。
 文字の色が似通っているのですばやく見分けることが出来ないためです。
 しかし文字の読みのほうはすぐに読めるからといって、文字を読んでしまうかというとそうはならないで、文字の色を見分けようとして止まってしまうのです。そのため、結果として文字の自動読みを抑制することになるのです。

 色というのは見ればすぐに見て取れるのですが、だからといってすばやく識別できるとは限りません。
 赤系統であれ、青系統であれいくつもの種類の色が名前をつけられて分類されています。
 似たような色が出てくるとそれらを見分けようとすると、自動的には出来ないで時間がかかってしまいます。
 そればかりか、色を見てその名前と結び付けるにも似たような色であれば時間がかかります。

 文字のほうは、意味が似ているからといって文字自体も似てくるわけではないので、そうした理由で読みに手間取るということはありません(漢字が難しくて読みがつかえたりすることはありますが)。
 ストループ効果といってもいろんな形態が考えられるわけで、文字の色が簡単に識別でき、文字が簡単に読めて、双方が自動的に処理できるときに、競合が発生するのです。


 


位置のストループ効果

2007-07-02 22:43:26 | 視角と判断

 ストループ効果というのは色のついた文字の、文字の意味でなく文字の色名を答えるとき、色の名前を読むより時間がかかり、つい色の名前のほうを読んでしまったりする現象です。
 「あお」とか「あか」という字を読めない人はほとんどいないだけでなく、字を見るとつい読んでしまうほど自動化しているので、文字の色を答えるよう求められても、つい文字を読んでしまうものと考えられています。
 つい読んでしまうという自動的な活動を抑えて、文字の色を答えるためには衝動を抑える抑制力が必要で、そのためには前頭葉が発達していなければならないという考え方があります。
 ストループテストを繰り返し練習すれば、前頭葉の訓練になり、ボケないですむと予想しているのでしょうが実際に効果があるかどうかは示されていません。

 長縄久生「認知心理学の視点」には色ではなく「位置」を示す文字を使って同じような現象を起こす例が紹介されています。
 上の左の図のようにスクリーンに、「上、下、左、右」のように位置を示す単語を表示して、単語の読みではなく「位置」を答えさせます。
 このとき単語の示された位置がこの例のように上にあるのに「左」という意味を表していて食い違っていると、答える時間が遅れたり、つい「左」と読んでしまったりすることがあります。
 
 実験結果では答えが出てくる時間(反応時間)は、若年者より高齢者のほうが遅く、練習をしてもあまり変わらないとしています。
 答えを間違える率のほうは両方とも1~2%程度で低く、高齢者のほうが間違えやすいということはないとされています。
 この結果から見ると、高齢者は前頭葉が衰えてきているといっても、抑えが利かず語反応を冒しやすいということではないようです。
 むしろ見てからの判断が遅れているのか、あるいは判断をして口で答えるという運動機能が鈍くなっているのだと考えられます。

 右側の図は一覧にして次々に答えを出していくためのものですが、ストループテストと同じように、使えたりウッカリすると間違えそうになることが分かります。
 この場合も「位置」の判断は瞬間的に行われるのですが、「位置」を言葉に出そうとしたときに文字に注意が向かっているのでつい文字を読んでしまいそうになります。
 ただ文字の色を答える場合よりややスムーズに答えられる感じがします。
 「位置」情報は相対的なものなので「色」情報より判断が遅れるので、判断スピードが遅かったり、判断しにくい情報のほうが文字情報の干渉を受けにくいのかもしれません。
 
 考えてみれば、文字情報のほうが色情報よりすばやく自動的に判断されるという説は、常識的に考えればおかしなものです。
 道路信号は「赤」「青」「黄」という色で判断させ、文字で判断させようとはしていないのは文字より色のほうが判断しやすいからです。
 文字を見て音読しなくても意味が頭に入れば、つい読んだりしなくてすむのです。
 自分の名前なら文字で書かれているのを見て、音読しなくても意味がすぐに頭に入ります。
 文字を見て読んでしまうというのは、音読の習慣の結果で、ほんとうは読みが完全に黙読することが出来ていないからです。
 


ストループ現象と視覚判断

2007-07-01 22:33:28 | 視角と判断

 文字の色と文字の表している言葉の意味がくいちがっていると、文字の色を口で言おうとしたとき、つまったりウッカリ文字を読んでしまったりします。
 いわゆるストループ効果というものですが、これはアメリカで発見されたもので、文字と言えば当然アルファベットという前提でした。
 日本人の場合は漢字とカナが2種それにローマ字を使っているので、文字といってもどれが当てはまるのか、あるいはすべての文字について当てはまるのか分かりません。

 上の図はローマ字の場合ですが、文字の色を答えていくのは、平仮名や漢字の場合と比べるとすばやく出来、まちがいも少なくなります。
 ローマ字はたいていの人はあまりなじんでいないので、漢字や平仮名の場合のように自動的に素早く読めません。
 そこで文字の色を答えようとしたとき、文字の読みが自動的に出てきてしまうことがないので、つかえたり間違ったりしにくくなると考えられます。
 そうはいっても順々に色の名前を答えていくとき、つい文字を読んでしまうということがローマ字の場合でも起きてきます。

 ところで上の図で、文字の色がたとえば青い単語を順に探し、その色の名前を言うとすると、これは間違いなく非常に速いスピードで出来てしまいます。
 ところがAKAという文字を探して、その言葉を読んでいこうとすると、色を探した場合より時間がかかります。
 つまり色を見て何色か判断するほうが、文字を見て何を表しているかを判断するより早いのです(これは色がはっきり分かれている場合で、たとえば赤、紅、緋色、朱色、丹色など似たような色だと、文字の方は色が似ていてもまったく違うので、文字のほうが探しやすくなります)。
 色の判断のほうがはるかに早く出来ても、口で色の名前を言おうとしたとき、後から判断できた文字のほうの読みが口に出てしまう場合があるのです。

 下のほうの図は、ローマ字の大文字と小文字、カタカナ、漢字を使って混ぜ合わせてあります。
 この場合も、文字の形態がいくつかに分かれていても、同じ色の文字を探し出すのは簡単で、眼を動かさなくても一目で所在が分かります。
 この場合は意味が同じ単語(たとえば、赤、アカ、aka,AKA)を探し出すのはローマ字大文字のみの場合に比べればはるかに時間がかかります。
 文字の種類がとりどりなので、文字を見て自動的に読む傾向がおさえられはするのですが、文字の色を答える前につい文字を読んでしまうということが起こるのです。
 文字と読みの結びつきのほうが、色と言葉の結びつきより強いので、時間的には遅い文字の読みが優先してしまうということでしょうか。