60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

視線の動かし方で見え方が変わる

2006-07-21 22:38:42 | 視角と判断

 横に並んだ二つの円形は左側が凸型に見え、左側がくぼんで見えます。
 左側の図形は右側の図形を上下反転させたものなのですが、上が明るいほうが出っ張って見えます。
 月面のクレーター写真を見たときに、こうした現象を経験するのでクレーター錯視などと呼ばれているものです。
 このような現象がおきるのは、光が上から来るという経験によって、上が明るいほうが凸面であると解釈しやすいからだと説明されています。
 明るい部分が進出して見え、暗い部分が後退して見えるというだけでなく、「光が上から来るという経験によって上が明るいと凸面だと思ってしまう」というのが心理学的な説明の特徴です。
 単に明るい部分が進出して見え、暗い部分が後退して見えるという理学的な解釈でなく、心理的な構えがものの見え方を変えると解釈するのです。
 
 ところで、図を見るとき視線は図形のどのあたりにむかうでしょうか。
 たいていの人は図形のうえのほうから見ます。
 下から上のほうを見ていくのではなく、上から下のほうを見ます(X→Y)。
 図の場合最初に上のほうを見るので、左の円は明るい部分が最初に目に付きその部分が進出して見えるので、前に出っ張っているように見えます。
 右の円は最初に暗い部分が見えるのでへこんで見えるのです。
 そこでこの図を下のほうから上のほうに向かってみていったらどうでしょうか(Y→X)。
 そうすると右の円は凹型でなく凸型に見えます。
 要するに視線の動かし方によって見え方が違ってくるのであって、心理的な解釈で見え方が決まるとは言い切れないのです。

 この図は明るい部分が上下に来ていますが、90度回転させて横から光が当たった場合はどうなるかといえば、やはり立体感は出てくるのですが、左から見る癖のある人は明るい部分が左側にあればそれが凸型に見えます。
 見るときにそれと意識しなくても見方に癖があり、その結果見え方が変わるのですが、上下の場合はほとんどの人が上から下に見ていくので上が明るいほうが凸型に見えるのです。

 右側の図は8の字なのですが、左側の8は上のほうがわずかに小さくなっています。
 右の8は左の8を逆さまにしたものなのですが、大小の差がはっきり見えるようになっています。
 この場合も上下から上へ視線を動かしていくと、左の8は下の部分が大きく見えるようになり、右の8は上の部分がさほど大きく見えなくなります。
 ものを見るときには視線を固定してみるわけではなく、視線を動かしながら見ているのでこのように見え方が変わるのです。
 視線の動かし方には何らかの心理的要因があるかもしれませんが、ものの見え方は網膜の上に映った象が基礎となるので、心理が勝手に変えてしまうわけではないのです。


輪郭のイメージ

2006-07-20 23:26:51 | 言葉とイメージ

 図Aは、この中に埋め込まれている星型を探す問題です。
 紛らわしい線や塗りつぶし部分があるため、すぐには見つけにくくなっています。
 大きさが示されていないのですが、星型がどんな形かはたいていの人が知っているので、場所が分かればはっきりそれと認識できます(左下)。
 わかりにくいのは、星型のイメージに部分的に合致する場所がいくつもあるのと、線が錯綜していて、視線がスリップしやすいためです。
 これは実際にある輪郭線が、妨害刺激でかくされているのを探し出すという課題なのです。

 Bはいわゆる主観的輪郭というもので、パックマンで囲まれた部分が白い三角形として浮き出ているように見えるものです。
 実際に描かれているのは三つのパックマンだけで、三角形の辺は描かれておらず、実際にはない辺があるように見えるので主観的輪郭と呼ばれているものです。
 主観的とはいわれても、ほとんどの人が三角形の輪郭を感じ取るだけでなく、サルや犬、猫、ネズミなどの動物もこの三角形の輪郭を感じ取るようですから、主観的というよりも客観的基礎がある輪郭だということになります。
 白い三角が浮き出て見えるということは、黒いパックマンが後退して見えるということにより遠近感が感じられるためだと考えられます。
 黒いパックマンが後退して見えるために白い三角形が浮き出て見えるといっても、三角形の辺は実際には描かれていないのですから、見る側の脳が補完しているのです。

 Cは何に見えるかという課題で、答えは象なのですが、この場合は象だとはっきり分かる輪郭線があるわけではありません。
 象のイメージを持たない人には無論わからないのですが、象のイメージを持っている人でもはっきり分かるとは限りません。
 図自体には輪郭線がないだけでなく、写実的な形でもないので、特定のイメージと重ね合わせるということも困難です。
 図を見ているうちにふと思いつくという点では、インスピレーションが働いたような気がするかもしれません。
 象という言葉を聴けば、なるほど象かと、象のイメージを図からつくりあげることができたりします。
 この場合は象の固定的なイメージを持っていて、それと図が一致するというのではなく、図をヒントにしてイメージを作っていますから、図と言葉の相互作用でイメージがつくられています。実際には存在しない輪郭ですが、知識や経験を共有することで感じられるので、共同幻想とも言うべきものです。
 


言葉によって分かるイメージ

2006-07-19 22:47:00 | 視角と判断

 上の図は埋没図形の例で、何に見えるかと言われても、なかなかわからない人が多いようです。
 輪郭が背景に同化してしまっているため図の形が見えてこないためです。
 答えは「ダルマチア犬」で、ダルマチア犬を知っている人なら、言葉を聴いてなるほどと思うかもしれません。
 知らない人はイメージがわかないので、言葉を聴いても輪郭がわからないかもしれません。
 輪郭が明示されているわけではないので、輪郭を補完しなければならないのですが、ダルマチア犬のイメージを持っていなければ補完しようがないからです。
 右側の図は輪郭線を補完したものですが、輪郭線が示されれば地面に鼻を近づけた犬をうしろから見た図であることが分かります。

 これはいわゆる主観的輪郭とは違います。
 いわゆる主観的輪郭の場合は、誰にでも分かるもので、パックマンに囲まれた三角形の場合などは、サルとか犬とか猫などに見せても分かるそうで、金魚に見せた場合でも分かったという実験もあるそうです。
 この図の場合は、誰にでもすぐ分かるという種類の輪郭ではなく、経験や知識に結びついたイメージに基づく輪郭です。
 見ただけですぐ思い当たる人もいますが、ひとによっては何度か見ているうちにふっとイメージがわくという場合もあります。
 
 ただ見るだけでは、何度見ても見えてこなかった人でも、言葉を聴いてイメージが呼び起こされ、そのイメージと比較してみて思い当たるといった場合があります。
 この場合は「百聞は一見にしかず」ではなく、「百見は一聞にしかず」ということになるのですが、感覚だけでは見えてこなかったものが、言葉によって見えてくる場合もあるのです。
 いちど言葉で「ダルマチア犬」と聞いて輪郭がわかってしまうと、次からは右図のような輪郭線がなくても左図を見ると、そのように見え、こんどはそれ以外の見え方ができにくくなります。
 言葉によるイメージ化がはたらいて、他のイメージが沸きにくくなるためです。
 そうなるとあいまいな形であれば、言葉によって間違ったイメージに誘導される可能性もあります。


知識によって見え方が変わるのか

2006-07-18 23:00:58 | 視角と判断

 上の図は心理学者ヴェルトハイマーが考案した図です。
 白い背景と黒い背景におかれた半ドーナツ型とドーナツ型はすべて同じ明るさの灰色なのですが、条件によって明るさがかなり異なって見えます。
 一番左の例では黒い背景におかれたものと白い背景におかれたものは、明るさの対比によってかなり違って見えます。
 ところが右のドーナツ型を見ると一つにつながって、まとまりをもっているので、黒い背景と白い背景にまたがっているのに、明るさの対比を超えてほぼ一様の明るさに見えます。
 右側のドーナツ型がほぼ一様の明るさに見えるのは、一つのドーナツ型のものだと脳が考えるためだと心理学では説明されます。
 左側の離れた半ドーナツ型の場合は、対比効果によって自然に明るさが違って見え、右の場合はドーナツ型という知識に影響されて同じ明るさに見えるというのです。
 
 こういう説明は至極もっともらしいように感じられますが、ちょっと考えるとおかしな説明だなと気がつきます。
 知識に影響されて見え方が違うというなら、「半ドーナツ型はすべて同じ明るさの灰色だ」ということが分かってから見れば、すべてほぼ一様の明るさに見えるはずです。
 ところが同じ明るさだと種明かしをされてから見ても、やはり黒い背景におかれたものと、白い背景におかれたものは、明るさが違って見えます(一番左の二つの半ドーナツ型)。
 知識によって見え方が変わるという説明は、もっともらしくはあっても事実ではないのです。

 ところで、真ん中の場合は半ドーナツ型はくっついているのですが、右の場合と違って上下を区切る線が入っています。
 そのため左の場合ほどハッキリした差は感じられませんが上下で明るさに差があります。
 ちょうど右と左の中間のような感じであるときは上下が同じような明るさに見えたり、またあるときは上下の明るさを強く感じたりします。
 つまり、知識に依存して見え方が変わるという風な説明は無理筋だということが分かります。
 
 それじゃあどう説明すればいいのかということになるのですが、それは眼を動かすから見え方が変わるということです。
 ためしに黒い背景のほうに眼を向けてみると三つの半ドーナツ型はすべて同じように明るく見え、下の半ドーナツ型は一様に暗く見えます。
 こんどは下の白い背景のほうに眼を向けてみると三つの半ドーナツ型は同じように暗く見え、上の三つの半ドーナツ型は一様に明るく感じます。
 いずれの場合も右のドーナツ型でも上と下とで明るさが違って見えてています。
 真ん中の場合は上下の半ドーナツ型に同時に注意を向けて見ていれば、上下が同じ明るさに見えるようになりますし、左の場合でも上下の半ドーナツ型に注意を集中してみていると同じ明るさに見えるようになります。
 眼を動かせばそれぞれの背景との対比が感じられるのですが、視線を固定させて背景の影響をはずせば同じように見えるということなのです。


一字づつ読まない

2006-07-17 23:04:28 | 文字を読む

 むかしの子供の遊びで、「チッケッタ」とか「ジャンケンポン」とじゃんけんをして、勝った手によって石段などを進むというのがありました。
 語呂合わせで「グー」で勝てば「グリコ」と3段、「チョキ」なら「チヨコレイト」で6段、「パー」なら「パイナツプル」と6段進むというものです。
 「チョコレート」や「パイナップル」の読み方は変則のようですが、言葉を一音節づつに分解して発音しているのです。

 上の図は普通に発音した場合と、一音節づつ切り離した場合との音波を示したものですが、普通に発音した言葉は音節がくっついている部分があるので、幼児のうちは分かりにくいのです。
 英語などでもそうですが大人がしゃべる言葉は音節がはっきり区切られていないので、幼児や外国人には聞き取りにくいのです。
 言葉の覚えはじめの段階ではゆっくり発音したり、音節を区切って発音して聞かせたりすれば真似しやすく覚えやすいのです。
 このような遊びは大人になってしまうと、どこが面白いのか分からないかもしれませんが、言葉と体の動きを同じリズムに乗せるので子供をひきつけるのです。
 音声を体の動きに結びつけることで、言葉の聴覚イメージを覚えこみ言葉を聴いて理解したり、しゃべったりすることができるようになるのです。
 ひとつづつ音節を区切って発音するのは、初歩の段階でこうした段階の後では言葉を音節のまとまりとして発音するようになります。

 文章の場合、日本語の場合は、かな文字が一音節一文字という関係で、かな文字を覚えればひらがな文は文字をたどって読めるのですが、言葉の聴覚イメージを身につけないとまともな読み方ができません。
 言葉のまとまりを体得していないと落語のように「ひとつ、あねあねあねがわのか、あねがわのかつ、あねがわのかつせんの、ことなり」というような読み方になってしまいます。
 日本語の場合はひらがなだけでなく、漢字が混ざっていますが、文章を端から一文字づつ読んでいったのでは意味が理解できません。
 単語を覚えるときは一つ一つの構成要素を確認して覚えるかもしれませんが、記憶から引き出すときは単語の全体イメージが一度に出てこなければ使いものになりません。
 速読法では文字を一つづつ読む癖をなくさなければならないといいますが、別に速く読まなくても文章を理解するためには、言葉をひとまとまりのものとして把握できる必要があるのです。


漢字は見れば分かるか

2006-07-16 23:52:26 | 文字を読む

 図は中国でで使われている簡体字の例です。
 中国では識字率を上げる(文盲率を下げる)ために大幅に漢字の簡略化を行ってきています。
  中国の場合は日本のようにカナがないので、難しいとか知らない字はカナをあてがっておくなどということはできません。
 日本でさえ難しい字を簡略化したり端折ったりして、なお漢字が満足に使えないという現象があるのですから、中国ではよけい漢字の簡略化が必要だったのでしょう。
 簡略化のやり方は、ずいぶん乱暴な感じがするところもあるのですが、大筋としては中国人の識字率を大幅に改善する結果となっているようです。
 文盲率が高くては現代経済の発展は望めないのですから、難しすぎた漢字の簡略化は,体裁が悪くても効果はあったのでしょう。

 簡略化された様子を見ると、いろんな意見が寄せ集められてできたのか、日本人の感覚からするとおかしなところがあり、合理的でないところもあるようですが、文字や言葉はしょせん慣れの問題ですからこのまま通用していくのでしょう。
 方法として分かりやすいのが草書など簡略化した筆記体を模したもので、見、長、馬、書、頭などですが、筆記対は曲線なのに直線化しているので、形態としての見苦しさがあります。
 コザト偏に日で陽、月で陰というのは理にかなっているのですが、この例だけなら一般性がないので効力小です。
 遠と園は同じ部分が元に置き換えられているのですが、発音が同じということでの置き換えなのでしょうが、意味は分かりにくくなります。
 習、廣、業、帰などは一部分を残して大部分を削るという大胆な方法ですが、簡略化されすぎて戸惑いを感じます。
 穀や谷、幹や乾、髪と發、売と買など発音が同じだからひとつの文字で済ませるというのは仮借文字の裏返しのようなもので強引なやり方です。
 仮借文字は適当な文字がないとき発音の同じ文字で間に合わせるということですが、それぞれに文字があるのに音が同じだからひとつの文字でまとめてしまうというのは乱暴です(日本でもやっていますが)。

 簡体字を見ると、漢字の本来の形とは大分ずれているので、漢字の形から意味を感じ取るということは無理だなと思います。
 これは活字体の簡体字を見て、いまさらながら感じるもので、筆記体のことを思えば文字の形から意味が頭にしみこむと思うこと自体間違いだったのです。
 江戸時代の寺子屋で覚えるのは筆記体の草書だったのですから、字形から自然に意味を感じていたわけではなく、学習によって意味を覚えていたに違いないのです。
 漢字の読み違いとか意味の記憶違いなどの原因は多くの場合、見れば意味が分かると思い込んで、きちんと個別に意味を学習することを怠ることにあると思います。


漢字は右脳で処理されるとは限らない

2006-07-15 22:19:52 | 文字を読む

 文字を読むとき、かなは右視野(=左脳)優位であり、漢字は左視野(=右脳)優位であるという風にいわれることが多いようです。
 図は、御領謙「読むということ」にあるデータです。
 4字からなるひらがな語を左視野と右視野とに分けて提示した場合、右視野に提示されたほうがやや速く判定できているので、かな処理は右視野の処理つまり、左脳で処理するほうがやや早いという結果です。
 漢字の場合は、漢字1字の名詞と、ある漢字の偏を別のものに入れ替えた偽字を使った語彙判別テストで、左視野に示されたほうが処理速度が速くなっているので、右脳で処理するほうが優位であるという結果になっています。

 かなは左脳、漢字は右脳で処理するほうが優位といっても、数字を見ればごくわずかの差でしかないので、だからどうといえるものなのかどうかまでは分かりません。
 たとえば左視野に示された視覚情報は右脳に送られるので、まずは右脳で処理されるのでしょうが、記憶との照合などを含め、文字認識というものが片方の脳だけで処理されるわけではないからです。
 
 漢字の場合は漢字一字でなく漢字二字からなる名詞でテストをすると左右の視野での速度差が見られなくなったといいます。
 かなについては、テストが変わっても左脳優位であるのに対し、漢字の場合はテストによって、あるいはテストを受ける人によって、右脳が優位であったり、同じだったり、左脳が優位であったりするといいます。
 ひらがなは左脳で処理され、漢字は右脳で処理されるというような単純なものではないようです。

 かなや、アルファベットのように表音文字は左脳で処理され、表意文字である漢字は右脳で処理されるのだというような説があります。
 右脳のほうが処理スピードが速いとか、処理容量が大きいとかいったことと結びつけて、日本語の優位性を説くような俗説もありますが、根拠は薄弱なのです。
 漢字なら中国人などは漢字ばかり扱っているので、漢字=右脳=無限能力というような説でいけば、中国人はみな余程の天才ぞろいということになり、事実と大違いです。
 漢字はアルファベットやかなに比べると覚えるのに、ずっと多くのエネルギーと時間を必要とするので、使いこなせるようになれば便利な面がありますが、過度の評価に走るのはまちがいです。
 


漢字混じり文の方が理解しやすい

2006-07-14 22:56:40 | 文字を読む

 御領謙「読むということ」によれば,日本語の文章は漢字かな混じり文を読む場合が一番速いそうです。
 図のような文を一文づつランダムに示して読ませ、ひとつの文章ごとに正文か誤文かをキーを押して答えさせて反応時間を計るというテストで15セット90文の平均を取ったものです。
 速く読み取れれば速く答えられるということで、文が示されてからキーを押すまでの時間を読み取り時間とみなしています。
 これはテストを受ける人たちが示される漢字を十分知っていることを前提にしているので、漢字を十分に知らない場合は漢字かな混じり文の読み取りが不利になります。
 したがって、漢字まじりの文の読み取りが一番速いという結果は信頼してよいと考えられます。
 この本にある文字単位の読み取りテストでは(たとえば題vsだい、毒vsどく、、など)漢字よりかなのほうが読み取り速度が速いという結果になっていますから、文章になったとき漢字混じり文が速く読めるというのは不思議な現象ではあるのです。

 上の例は黙読の場合だったのですが、これを音読させた場合はかなの場合も漢字混じり文の場合も読みの時間に差がなくなるそうです。
 音読の場合は口を動かす時間がかかってしまうので、頭で読み取る時間が隠れてしまうためでしょう。
 漢字混じりでも、ひらがなでも音読をしている間に眼は先を見て読み取るので、音読時間には差が出ないものと思われます。

 黙読の場合で、漢字混じり文のほうが読み取りが速いというのは、このテストでは読んだ文章が正しいか間違っているか判断させているので、単純な文字認識ではないからです。
 文字を読んだ上で文の意味を判断しなければならないので、理解し判断するという過程が混じっています。
 漢字混じり文のほうが読み取り速度が速いということは、漢字混じり文のほうが文章の意味が分かりやすく、判断しやすいということを示しているのです。

 文字の読み取り時間というと、瞬間的に文字を示し、どのくらいの提示時間で読み取れるかというテストもありますが、この場合は文字が消えた後、脳が認識処理をしている時間を計らずに提示時間だけを問題にしたものです。
 提示時間だけなら0.1秒以下ですむのですが、光より脳の神経パルスの伝達速度が遅すぎるので認識速度というのは、脳の処理スピードが問題なのです。
 漢字一文字を認識するのに文字の提示時間は1000分の1秒以下でもできるのですが、なんという文字かを脳が確認するのには提示時間の何百倍もかかってしまうのです。
 文章の読み取りは、文字を見て単語を確認して、さらに文章として判断するといういくつもの過程を含んでいるので、脳の処理速度が問題で、この部分で漢字混じり文が優位に立つということが分かります。


文字の読み取り速度

2006-07-13 22:31:31 | 文字を読む

 城生佰太郎「当節おもしろ言語学」によれば、自足100kmの高速運転では1.2の視力は0.6に落ちるそうです。
 道路の案内標識もできるだけわかりやすくて頭に入りやすいものがよいのですが、日本人の場合はかなやローマ字よりも漢字の方が認識しやすいそうです。
 図のような漢字とひらがな、ローマ字を見せて、どれだけ速く認識できるかを調べたところ、漢字は.06秒,ひらがなの場合で0.75秒,ローマ字の場合は1.32秒かかったそうです。
 これは単純に漢字のほうが速く読み取れるということではなく、地名を漢字で読み取るのが慣れているからなのですが、漢字のほうが字形が複雑なのにもかかわらず、圧倒的に読み取り速度が速いのに驚きます。
 一文字であればひらがなやローマ字のほうが認識速度は速いのですが、地名など意味を持った言葉の認識では漢字のほうが早くなるのです。

 漢字であっても知らない文字とか、知らない単語であればもちろん読み取り速度は落ちますし、知らない単語で、複雑な文字、文字数が4字以上であればそれこそひらがなやローマ字より認識速度は落ちてしまいます。
 漢字の場合認識スピードが速いのはあくまでもあらかじめ記憶されている単語の場合で、単語を知らなかったり、まして文字を知らなければ、それこそ読み取りに何秒もかかってしまいます。
 ひらがなや、ローマ字の場合は単語を記憶していなくても、文字は読めるのですから記憶している単語との読み取り速度の差は漢字の場合ほど多くはありません。
 
 漢字が読み取りやすく、漢字かな混じりの日本の文章が速く読めるということが言われたりしますが、それは長い時間をかけて漢字を習得して読みなれた人の場合についていえることです。
 ひらがなやローマ字に比べ文字数が多いので覚えるのは大変ですが、意味と結びついて記憶されている場合はかえって認識スピードが速くなります。
 漢字のほうが字形が複雑なので、記憶との照合が手間取るということが予想されるのですが、厳密な照合をするわけではないので、案外に速く認識できるのです。
 図の例では「豊中」という文字を読み取りやすくしたウソ字になっているのですが、たいていの人はそのことに気がつかず「豊中」として読んでいます。
 多少間違っていたり、おかしな字体であってもそれを苦にしないでパッと読み取ることができるのは、イメージ記憶というものは結構あいまいで、記憶との照合もアバウトだからスピーディにできるのです。

 ひらがなやローマ字は文字の一部分を略したり、変形したりすると何の字かわからなくなったりするのですが、漢字は余分な部分が多いためか安定しているのでかえって大雑把な把握ができるという面があります。
 略字化など字形の変更などがかなり乱暴なやり方でされても、多くの人があまり気にせず字が速く読めるというのも漢字の長所というか、短所というか特徴のひとつです。


注意の向け方で見え方が変わる

2006-07-12 23:03:29 | 視角と判断

 図は眼の断面図ですが、横から見たものと解釈しても、上から見たものと解釈してもかまいません。
 ものを見るときの焦点調節は、カメラのレンズに当たる水晶体の厚さを調節することによって可能になります。
 水晶体は普段は水晶体の周囲にある毛様体筋につながるチン氏帯という紐のようなもので引っ張られて薄い状態ですが、このとき毛様体筋はゆるんでいます。
 近くを見るときは毛様体筋が緊張してちぢむので間のチン氏帯がゆるみ周囲から引っ張られなくなった水晶体が膨らむということになります。
 歳をとれば水晶体が弾力を失っていて、チン氏帯がゆるみ周りからの引張りがなくなっても水晶体のふくらみが十分でなくなるので、近くのものが見えにくくなるのです。

 ところで、ものを見るときは程度の差はあっても毛様体筋を緊張させ、水晶体の厚さを変えて焦点をあわせようとします。
 このとき、毛様体筋のちぢみ具合が水晶体の上下左右で均等であるというのが普通ですが、上下に注意を向けたときと左右に注意を向けたときとでは少し差ができます。
 上下に注意を向ければ視野が上下に広がるだけでなく、上下の毛様体筋のほうがやや緊張するので、水晶体が上下方向に対して膨らむことが予想されます。
 その結果モノの見え方は上下方向に拡大されて見えることになります。
 もし左右の方向に注意を向ければ左右の毛様体筋がちぢみ、水晶体は水平方向に対してふくらみ、ものの見え方は水平方向に拡大されて見えることになります。

 右側にある図A、Bは同じ正方形なのですが、Aは横に長く、Bは縦に長く見えます。
  Aの場合は○印が正方形の左右にあるため、注意が左右に向けられ左右のほうがやや拡大されて見え、正方形は横長に見えるのです。
 これに対しBの場合は、正方形の上下に○印があるので、上下に注意が向かい上下が拡大され、正方形が縦長に見えるのです。
 このような調節は無意識のうちに行われるので、AとBが同じ正方形であるということに気がつかず、違う形の長方形だと思ってしまいます。
 普通はこれを錯覚だとするのですが、水晶体の変形によって網膜に映る像が変化するのであれば、それは錯覚ではありません。
 見方が変われば見え方が変わるということですから、変わって見えることが正常なのです。

 これは分かりやすい例としてあげたものですが、普段ものを見ているときでも上下に注意を向けたときと左右に注意を向けたときとでは見え方に違いがあります。
 只そのように意識してみない限り気がつかないということです。
 室内にある周りにあるものでも、戸外の車とか建物などでも上下と左右の注意の向け方で形が変わって見えることを確かめることができます。