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ものの数え方とイメージ

2006-06-15 23:01:28 | 言葉とイメージ

  鉛筆とか映画とかホームランはともに一本という単位で数えられるという点で共通点があります。
 一本で数えられるというのは、長くて細く、筒状のもの(と関係するものも)ということで、本質的な共通性ではないけれども部分的共通性があります。
 日本語は助数詞言語で、ものを数えるときの単位がそのものの形とか、機能その他の性質に対応して単位名が異なります。
 鳥が一羽とか、魚が一匹、人間なら人という風にさまざまな呼び方をしますが、名詞ごとにあまりに細かく呼び方が成立しているので、誰でもがすべて正しく助数詞を使えるわけではありません。
 しかし日本人であれば物の呼び方を、何でも一個とか二個とかいった呼び方をせず、そのものに応じた呼び方が大体できるようになっています。
 
 ときどきクイズなどで昆虫の呼び方はというのに、答えが「頭」というのがありますが、これは本来の日本語の感覚ではありません。
 一説では、明治期にヨーロッパの生物学を翻訳したときに、昆虫の個体の数え方として誤認したということらしいのです。
 ヨーロッパの言語は助数詞言語ではないので、頭という単位を使うことは考えられないのですが、初期の学者が「頭」という単位を導入したために、それを改めず踏襲してきてしまった模様です。
 常識があれば,蚊やハエ、蝶を一頭、二頭などと呼ぶこと抵抗があると思うのですが、学者の世界ではその呼び方が俗世間と違うということで、かえって専門用語として尊重されたのかもしれません。
 このような呼び方を。あたかも日本語の正しい使い方であるかの様にとりあげるのは困ったものです。

 ところで、井上京子「もし「右」や「左」がなかったら」によれば、子供が英語圏で長く生活すると助数詞が適切に使えなくなる現象があるといいます。
 これは単に言語知識の問題ではなく、もののとらえ方、感じ方にも関係するそうです。
 日本語のように助数詞を使う言語の場合は、ものの形よりも「材質」のほうに注意が向き、英語のように助数詞を使わない言語の場合は材質よりも「形」に注意が向かうとのことです。あるいは助数詞言語を話す人はモノの「中身」により注目し、そうでないひとよりも「外見」を気にしないのではないかと考えられるということです。
 この傾向は幼児期に始まり、言語の習得につれて強まってくるということなので、言語の習得につれて日本人的な感性ができてくるということなのでしょう。
 ただ最近は新たに商品が大量に登場してきているためか、呼び名が昔からの感覚だけでは対応できなくなっています。
 そうするとまた、昆虫を一頭二頭と呼んでしまったようなおかしな現象が出てこないとも限りません。