(青木家住宅)
青木家住宅
町田市相原の青木家住宅である。緒方洪庵に蘭学を学んだ青木芳斎の住居であるが、現在も青木病院として営業されている。主屋の建立は文久二年(1862)と推定され、建物と庭園は、水戸弘道館を模して造られたという。
青木芳斎が適塾に入門したのは嘉永六年(1853)のことである。適塾名簿では旧姓の湯浅方斎で記録されている。安政五年(1858)、青木得庵の娘と結婚して、青木家を継いだ。養父得庵とともに、牛痘種痘の普及に努めるとともに、八王子の眼科医秋山義方と協同して蘭書を出版した。維新後は、八王子に病院を設立したり英語塾を開設する等の功績があった。明治期、青木一族からは、青木正太郎という自由民権活動家も生んでおり、一族をあげて地域社会の発展に大きな足跡を残した。明治三十八年(1905)七十四歳にて死去。
(青木家墓地)
青木家住宅の裏山に青木家の墓地がある。墓地入口に巨大な青木芳斎の顕彰碑が建立されている。
芳斎翁之碑
鶴翁院秀逸芳斎居士
(青木芳斎の墓)
芳斎の墓石には、芳斎が相原に開いた医院名である「回春堂」が刻まれている。
正覚院霊光不昧喆成居士
(青木正太郎の墓)
(清水寺)
清水寺 観音堂
清水寺観音堂は、幕末の嘉永三年(1850)に再建されたもので、彫刻装飾を施した芸術的建造物である。
観音堂の前に二つの古い石碑が建っている。
近藤先生碑
天然理心流二代目の近藤三助の追悼碑である。初代近藤内蔵之助の養子となってニ代目を襲名した。青木家は邸内に道場を有しており、近藤三助はたびたび相原を訪れて地域の弟子に稽古をつけたという。文政ニ年(1819)当地訪問中に突然死亡した。清水寺の追悼碑は弟子たちによって建立されたものという。
善寧児先生碑
青木芳斎は、養父青木得庵とともに種痘の普及に尽くした。青木得庵は伊東玄朴から種苗を入手し、駿河、甲府、相模、武蔵を巡って数十万人に接種したともいわれる。清水寺の善寧児(ジェンナー)碑は、得庵の妻が種痘普及を記念して建てたものである。