史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

目黒 Ⅱ

2010年07月07日 | 東京都
(常光寺)


常光寺

 常光寺は、明治三十四年(1901)福沢諭吉が亡くなって最初に埋葬された寺である。昭和五十二年(1977)、福沢家の意向により、同家の菩提寺である麻布善福寺に改葬された。境内に慶応義塾が建てた「福澤諭吉先生永眠之地」のモニュメントと、福沢諭吉の胸像が置かれている。


福澤諭吉先生永眠之地碑


福沢諭吉胸像


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半蔵門

2010年07月07日 | 東京都
(大観堂学塾跡)
 東京は坂の多い街である。それぞれ歴史を感じさせる名前が付けられている。千代田区平河町の坂は貝坂と呼ばれる。その昔、ここに貝塚があったと言われるが、確かなところは分からない。貝坂の途中に高野長英が開いた大観堂学塾があった。高野長英が大観堂を開いたのは、文政十三年(1830)のことである。長英はここで蘭学の研究に励み、多くの書を著した。また、この学塾を拠点として蘭学者の研究会である尚歯会に参加した。


麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡

(三宅坂公園)


渡辺崋山生誕地

 最高裁判所の前の道は三宅坂と呼ばれている。最高裁判所のある地に三河田原藩三宅氏の上屋敷があったことが、その名の由来である。寛政五年(1793)、渡辺崋山はこの屋敷内の長屋で生まれた。以後、四十年余り、蛮社の獄で捕縛・投獄され、さらに在所蟄居を命じられて田原に向かうまで、この地で過ごした。

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八王子 Ⅳ

2010年07月07日 | 東京都
(観音寺)


観音寺 山門

 八王子市万町の住宅街に観音寺がある。観音寺の山門は、中村左京という八王子千人同心の屋敷門を移設したものという。
 墓地には、蘭学者秋山義方、左蔵父子の墓がある。秋山義方は安永八年(1779)に八王子同心の家に生まれた。江戸に遊学してシーボルトの門弟である湊長安に師事した。八王子に帰って眼科医を開業し、この地に蘭学の基礎を築いた人として知られる。高野長英とも交友が深かった。
 息子左蔵も蘭医。伊東玄朴に学び八王子で開業した。


賢応院天倫玄指居士(秋山義方)墓(右)
秋山家の墓(中央)

 秋山家の墓の筆頭にある「恩恵院天然宗節居士」が秋山左蔵の法名である。

(妙薬寺)


妙薬寺

 妙薬寺は、八王子のほぼ中心部に位置している。広い墓地に谷合弥七の墓がある。
 谷合弥七は、天保八年(1837)八王子に生まれた。慶応二年(1866)六月、秩父郡名栗地方の蜂起農民が八王子を襲おうとしたとき、農兵隊を指揮して鎮圧した。近藤勇の門下で剣を修業したことから、近藤勇の甲陽鎮撫隊に参加した。維新後は、神奈川県第二師範学校を八王子に開設、生糸会社や国立三十六銀行、武桑蚕糸改良協会の創立等、地域経済振興や民政に努めた。明治十年(1877)十月、五十一歳で死去。


孝徳院殿淳恭為政居士
(谷合弥七の墓)


谷合弥七頌徳碑
撰文は重野安繹

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多摩

2010年07月06日 | 東京都
(聖蹟記念公園)
 京王聖蹟桜ヶ丘は、京王線のターミナル駅で、駅周辺に繁華街が広がる。駅から少し離れるが、開園面積三十万平方メートルを誇る都立桜ヶ丘公園の中に旧多摩聖蹟記念館がある。昭和五年(1930)、明治天皇が生前この地を四回にわたって訪れたことを記念して開かれたものである。施設内には明治天皇の騎馬像や田中光顕が収集した幕末維新期に活躍した人物の掛軸や書状などが展示されている。入場無料。


旧多摩聖蹟記念館

 旧多摩聖蹟記念館の向かい側に五賢堂がある。五賢とは、維新に活躍した岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、三条実美をいい、建物内には胸像が置かれている。


五賢堂

 五賢堂の前に建てられた田中光顕の歌碑である。

 結髪勤王事中年侍聖君
 老來濟世志不肯伍仙群
 奉祝 青山田中先生耆徳


田中光顕歌碑


明治天皇御製碑

 田中光顕による明治天皇と昭憲皇太后の歌碑である。

明治天皇
 春ふかき山の林にきこゆなり
 けふをまちけむ鶯の聲

昭憲皇太后
 兎とる網にも雪のかかる日に
 ぬれしみけしを思ひこそやれ

 春もまたさむきみやまの鶯は
 みゆきまちてや鳴きはしめけむ


明治天皇御野立碑

 駐車場の脇に明治天皇野立碑が建てられている。明治天皇は、明治十年代に兎狩りや鮎漁を楽しむためにこの地に四回足を運んでおり、このときのことを記念したものである。

(対鷗台公園)


対鷗台公園

 明治天皇御野立碑がある駐車場から坂を下りて、鎌倉街道を越えた辺りに対鷗台公園がある。この公園には、かつて三条実美の別荘である対鷗荘が移設されていた。対鷗荘は、明治六年(1873)に三条実美が隅田川のほとりに建てた別荘で、同年秋の征韓論政争のさなか、人事不省に陥った三条を明治天皇が見舞ったことでも知られる。三条の死後、しばらくは未亡人が住んでいたが、その後貴重な財産を保存する声が高まり、昭和四年(1929)この地に移築された。対鷗荘は観光スポットとして、或いは飲食店として多くの客を集めたが、残念ながら昭和六十三年(1988)に取り壊された。


明治天皇行幸所對鷗荘

 公園内には複数の石碑が建てられている。「御駒櫻碑」と「向ノ岡野立所」という二つの碑は、ともに田中光顕の筆。この辺り一帯は「向ノ岡」と呼ばれていた。また、江戸末期には多数の桜が植えられ、大正から昭和にかけてこの地で草競馬が催されることもあった。両石碑とも、明治天皇がたびたびこの地に行幸したことを記念したものである。


御駒櫻碑


向ノ岡御野立所碑

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町田 成瀬

2010年07月04日 | 東京都
(東雲寺)


東雲寺


英厳院殿石州太守泰煕弘道日忠大居士
(井戸弘道の墓)


井戸石見守弘道侯顕彰碑

 町田市成瀬の東雲寺に井戸弘道の墓がある。井戸弘道は幕末の幕府を代表する能吏の一人で、ペリー来航時に大統領親書を受け取った人物として歴史に名を刻んだ。安政二年(1855)に五十八歳で死去したが、菩提寺である池上の法養寺に墓が設けられた。成瀬は井戸家の最大の采地であり、幕府瓦壊後、一家をあげてこの地に移住した。そのため、夫人の没後、ここ東雲寺に墓が建てられた。更に平成五年(1993)に墓の傍らに顕彰碑が建立されている。

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町田 相原

2010年07月04日 | 東京都
(青木家住宅)


青木家住宅

 町田市相原の青木家住宅である。緒方洪庵に蘭学を学んだ青木芳斎の住居であるが、現在も青木病院として営業されている。主屋の建立は文久二年(1862)と推定され、建物と庭園は、水戸弘道館を模して造られたという。
 青木芳斎が適塾に入門したのは嘉永六年(1853)のことである。適塾名簿では旧姓の湯浅方斎で記録されている。安政五年(1858)、青木得庵の娘と結婚して、青木家を継いだ。養父得庵とともに、牛痘種痘の普及に努めるとともに、八王子の眼科医秋山義方と協同して蘭書を出版した。維新後は、八王子に病院を設立したり英語塾を開設する等の功績があった。明治期、青木一族からは、青木正太郎という自由民権活動家も生んでおり、一族をあげて地域社会の発展に大きな足跡を残した。明治三十八年(1905)七十四歳にて死去。

(青木家墓地)
 青木家住宅の裏山に青木家の墓地がある。墓地入口に巨大な青木芳斎の顕彰碑が建立されている。


芳斎翁之碑


鶴翁院秀逸芳斎居士
(青木芳斎の墓)

 芳斎の墓石には、芳斎が相原に開いた医院名である「回春堂」が刻まれている。


正覚院霊光不昧喆成居士
(青木正太郎の墓)

(清水寺)


清水寺 観音堂

 清水寺観音堂は、幕末の嘉永三年(1850)に再建されたもので、彫刻装飾を施した芸術的建造物である。
 観音堂の前に二つの古い石碑が建っている。


近藤先生碑

 天然理心流二代目の近藤三助の追悼碑である。初代近藤内蔵之助の養子となってニ代目を襲名した。青木家は邸内に道場を有しており、近藤三助はたびたび相原を訪れて地域の弟子に稽古をつけたという。文政ニ年(1819)当地訪問中に突然死亡した。清水寺の追悼碑は弟子たちによって建立されたものという。


善寧児先生碑

 青木芳斎は、養父青木得庵とともに種痘の普及に尽くした。青木得庵は伊東玄朴から種苗を入手し、駿河、甲府、相模、武蔵を巡って数十万人に接種したともいわれる。清水寺の善寧児(ジェンナー)碑は、得庵の妻が種痘普及を記念して建てたものである。

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