(徳田屋跡)
吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)
東浦賀の渡船場の近くに徳田屋跡を示す石碑が建てられている。徳田屋は松平定信が、相模・伊豆沿岸の視察のために宿泊したという記録も残っているという老舗である。幕末には吉田松陰がペリー艦隊を実見するためにここに泊り、ここで佐久間象山と面会している。ほかにも浮世絵師の安藤広重や長州藩士桂小五郎らも徳田屋を利用している。残念ながら大正十二年(1923)、関東大震災のとき倒壊して姿を消してしまった。
渡し船
東西の浦賀を結ぶ渡し船は、享保七年(1722)には渡し船が文献に登場しており、それ以前に創業されたものと推定されている。時刻表などはなく、渡し船場に行くと対岸からでも迎えにきてくれる。片道150円。私が乗船したとき、乗客は老婆が一人だけであった。老婆は「暑いねぇ。こっちに座った方が涼しいよ」と声をかけてくれた。わずか数分で西浦賀に着くが、なかなか風情があって楽しめる。
(浦賀郷土資料館)
西浦賀に渡ってしばらく歩くと、浦賀郷土資料館がある。二階の中島三郎助関係の資料展示が充実している。
高橋由一画 中島三郎助像
中島三郎助遺書
三郎助には、ともに箱館で戦死した長男恒太郎、次男英次郎のほかに、当時二歳だった与曾八と名付けられた三男がいた。遺書は与曾八に宛てられたものである。官軍の総攻撃の前夜、死を決した三郎助が書いたもので、形見として短刀を送ること、徳川家への恩顧を忘れず忠勤を励むことなどが記されている。
鳳凰丸
鳳凰丸は、中島三郎助が建造主任となって嘉永七年(1854)に完成させた洋式軍艦で、外国からの技術指導も無しに、造船書のみを頼りに作り上げたものである。
ほかにも黒船(サスケハナ号)、咸臨丸の模型の展示など、非常に充実した史料館である。観覧している間、ほかに誰も来なかったが、もっと多くの人に見てもらいたい内容である。
(大衆帰本塚碑)
大衆帰本塚碑
浦賀郷土資料館から、更に浦賀駅方面に歩を進めると、左手に大衆帰本塚碑が移設されている。
この碑は、元治元年(1864)に建てられたもので、中島三郎助の文と筆跡がそのまま碑文となっている。碑文の概要は、「かつてこの辺りはのどかな湿地帯であったが、開発により家が建つようになった。これによって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養することになり、時の浦賀奉行大久保土佐守が大衆帰本塚を設けることを決めた。これに喜んだ奉行所付大工棟梁の川島平吉は、この事実を伝えるために良い石材を選び、周囲には桜の木を植えて無縁になった人々の魂を慰めようとした」というものである。
吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)
東浦賀の渡船場の近くに徳田屋跡を示す石碑が建てられている。徳田屋は松平定信が、相模・伊豆沿岸の視察のために宿泊したという記録も残っているという老舗である。幕末には吉田松陰がペリー艦隊を実見するためにここに泊り、ここで佐久間象山と面会している。ほかにも浮世絵師の安藤広重や長州藩士桂小五郎らも徳田屋を利用している。残念ながら大正十二年(1923)、関東大震災のとき倒壊して姿を消してしまった。
渡し船
東西の浦賀を結ぶ渡し船は、享保七年(1722)には渡し船が文献に登場しており、それ以前に創業されたものと推定されている。時刻表などはなく、渡し船場に行くと対岸からでも迎えにきてくれる。片道150円。私が乗船したとき、乗客は老婆が一人だけであった。老婆は「暑いねぇ。こっちに座った方が涼しいよ」と声をかけてくれた。わずか数分で西浦賀に着くが、なかなか風情があって楽しめる。
(浦賀郷土資料館)
西浦賀に渡ってしばらく歩くと、浦賀郷土資料館がある。二階の中島三郎助関係の資料展示が充実している。
高橋由一画 中島三郎助像
中島三郎助遺書
三郎助には、ともに箱館で戦死した長男恒太郎、次男英次郎のほかに、当時二歳だった与曾八と名付けられた三男がいた。遺書は与曾八に宛てられたものである。官軍の総攻撃の前夜、死を決した三郎助が書いたもので、形見として短刀を送ること、徳川家への恩顧を忘れず忠勤を励むことなどが記されている。
鳳凰丸
鳳凰丸は、中島三郎助が建造主任となって嘉永七年(1854)に完成させた洋式軍艦で、外国からの技術指導も無しに、造船書のみを頼りに作り上げたものである。
ほかにも黒船(サスケハナ号)、咸臨丸の模型の展示など、非常に充実した史料館である。観覧している間、ほかに誰も来なかったが、もっと多くの人に見てもらいたい内容である。
(大衆帰本塚碑)
大衆帰本塚碑
浦賀郷土資料館から、更に浦賀駅方面に歩を進めると、左手に大衆帰本塚碑が移設されている。
この碑は、元治元年(1864)に建てられたもので、中島三郎助の文と筆跡がそのまま碑文となっている。碑文の概要は、「かつてこの辺りはのどかな湿地帯であったが、開発により家が建つようになった。これによって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養することになり、時の浦賀奉行大久保土佐守が大衆帰本塚を設けることを決めた。これに喜んだ奉行所付大工棟梁の川島平吉は、この事実を伝えるために良い石材を選び、周囲には桜の木を植えて無縁になった人々の魂を慰めようとした」というものである。