史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

浦賀 Ⅳ

2010年07月24日 | 神奈川県
(徳田屋跡)


吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)

 東浦賀の渡船場の近くに徳田屋跡を示す石碑が建てられている。徳田屋は松平定信が、相模・伊豆沿岸の視察のために宿泊したという記録も残っているという老舗である。幕末には吉田松陰がペリー艦隊を実見するためにここに泊り、ここで佐久間象山と面会している。ほかにも浮世絵師の安藤広重や長州藩士桂小五郎らも徳田屋を利用している。残念ながら大正十二年(1923)、関東大震災のとき倒壊して姿を消してしまった。


渡し船

 東西の浦賀を結ぶ渡し船は、享保七年(1722)には渡し船が文献に登場しており、それ以前に創業されたものと推定されている。時刻表などはなく、渡し船場に行くと対岸からでも迎えにきてくれる。片道150円。私が乗船したとき、乗客は老婆が一人だけであった。老婆は「暑いねぇ。こっちに座った方が涼しいよ」と声をかけてくれた。わずか数分で西浦賀に着くが、なかなか風情があって楽しめる。

(浦賀郷土資料館)
 西浦賀に渡ってしばらく歩くと、浦賀郷土資料館がある。二階の中島三郎助関係の資料展示が充実している。


高橋由一画 中島三郎助像


中島三郎助遺書

 三郎助には、ともに箱館で戦死した長男恒太郎、次男英次郎のほかに、当時二歳だった与曾八と名付けられた三男がいた。遺書は与曾八に宛てられたものである。官軍の総攻撃の前夜、死を決した三郎助が書いたもので、形見として短刀を送ること、徳川家への恩顧を忘れず忠勤を励むことなどが記されている。


鳳凰丸

 鳳凰丸は、中島三郎助が建造主任となって嘉永七年(1854)に完成させた洋式軍艦で、外国からの技術指導も無しに、造船書のみを頼りに作り上げたものである。
 ほかにも黒船(サスケハナ号)、咸臨丸の模型の展示など、非常に充実した史料館である。観覧している間、ほかに誰も来なかったが、もっと多くの人に見てもらいたい内容である。

(大衆帰本塚碑)


大衆帰本塚碑

 浦賀郷土資料館から、更に浦賀駅方面に歩を進めると、左手に大衆帰本塚碑が移設されている。
 この碑は、元治元年(1864)に建てられたもので、中島三郎助の文と筆跡がそのまま碑文となっている。碑文の概要は、「かつてこの辺りはのどかな湿地帯であったが、開発により家が建つようになった。これによって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養することになり、時の浦賀奉行大久保土佐守が大衆帰本塚を設けることを決めた。これに喜んだ奉行所付大工棟梁の川島平吉は、この事実を伝えるために良い石材を選び、周囲には桜の木を植えて無縁になった人々の魂を慰めようとした」というものである。

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横須賀 Ⅳ

2010年07月24日 | 神奈川県
(ウェルニー公園)


ヴェルニ―胸像

 梅雨明けのこの日、強い日射しにめげそうになりながら、横須賀、浦賀、大津、横浜を散策した。ヴェルニ―公園に足を運んだのは、多分5~6年振りだろうと思うが、この日は海が青くて、公園も一段と綺麗に見えた。


開港碑

 小栗上野介忠順とヴェルニ―の胸像の周囲には、二人の功績を顕彰する開港碑、小栗が斬首された烏川水沼河原(群馬県倉渕)の石が置かれている。


記念石


ヴェルニ―記念館

 横須賀製鉄所(造船所)を建設し、日本近代工業化の礎を作ったとされるヴェルニ―を顕彰するために建てられた記念館である。館内には、慶応元年(1865)オランダ製の巨大なスティームハンマーなどが展示されている。
 ヴェルニ―は1837年にフランスのアルディッシュ県オブナに生まれ、リヨンの国立高等中学を卒業後、パリのエコール・ポリテクニクに入学。1858年には海軍造船大学校に進んで、造船技師となった。海軍のエンジニアとして中国寧波の造船に従事していたが、幕府の招きにより慶応元年(1865)来日。維新後も引き続き製鉄所の建設とその運営の任に当たった。観音崎灯台、走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を開いて日本人技術者の養成に努めるなど、多大な足跡を残して、明治九年(1876)に帰国した。1908年、故郷オブナにて死去。七十一歳。

(信楽寺)


信楽寺


龍馬とお龍 木像

 久し振りに信楽寺を訪ねたが、以前と違い京急大津駅から信楽寺に至るまでの道には、「龍馬の妻、お龍の眠る街」と書いた幟が立てられ、少し賑やかになっていた。以前は公開されていなかった龍馬とお龍の木像を見ることができた。


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横浜

2010年07月24日 | 神奈川県
(田中屋)
 横浜駅の喧騒から少し離れた旧東海道沿いに文久三年(1863)創業の老舗、田中屋が佇んでいる。周囲は高層マンションが立ち並び、昔の風情を残す建物はこの田中屋だけといっても良い。思わず「頑張れ」と声をかけたくなる。田中屋は、前身を旅籠「さくらや」という。「さくらや」は「東海道中膝栗毛」にも登場する由緒ある料亭である。高杉晋作やハリスなどもここを訪れている。


田中屋

 明治七年(1884)、勝海舟の紹介により、坂本龍馬未亡人、お龍がここで働いたという。英語も話せ、月琴を弾くことができたお龍は、外国人の接待に重宝された。

(神奈川台関門跡)
 安政の通商条約を受けて、各国の領事は横浜に公館を置いた。外国人が殺害される事件が相継ぎ、幕府を非難する声が高まった。そこで幕府は、安政六年(1859)、横浜周辺の要地に関門や番所を設け、警備を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が設置されたが、西側の関門が神奈川台関門である。

神奈川台関門跡 袖ヶ浦見張所

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