史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

池田

2017年06月17日 | 福井県
(善徳寺)


善徳寺

 善徳寺の裏山に「水戸浪士の生墓」と呼ばれる墓がある。
水戸浪士約一千が、木本、宝慶寺を経て池田に入ったのは元治元年(1864)十二月八日のことであった。彼らは東俣から谷口までの沿道十か村に分宿し、善徳寺には小野斌男(藤田小四郎の変名)以下、三十人と馬五頭が止宿した。翌九日、浪士たちは出発に当たって、一夜の歓待を感謝して謡曲数番をうたって別れを惜しんだ。この寺に泊まった浪士のうち、石上庄兵尉藤原政治、篠田利助藤原元治の二人は、神妙な面持ちで住職観意和尚の前に出、申し出た。「二人はいずれ近いうちに死ぬ身である。その時は観意和尚に引導を渡してもらいたいが、それもできまいから、髻(もとどり)を持参したのでこれを遺骨代わりに墓を建て、供養してもらいたい」というと、深々と頭を下げ、紙に包んだ髻を老僧に差し出した。観意和尚は「死を急いではならぬ」と強い口調でたしなめた。彼らの髻は今も寺に伝えられ、「生墓」と呼ばれる墓は、裏山にある。


天狗党の生墓

(大庄屋飯田家)
 東俣(ひがしまた)は、中世越前国今南東郡池田庄の集落の一つで、古くから当地には「池田の三関」と呼ばれた関所が置かれていた(他の二つは、志津原、水海)。
 江戸期は越前国今立郡に属し、初めは福井藩府中本多氏の知行地、幕府領を経て、享保五年(1720)以降、鯖江藩領となった。
 武田耕雲斎らは東俣村の飯田彦治兵衛邸に宿泊した。飯田家は代々庄屋を務める家柄で、教養も高く、尊王の志も厚い人で、耕雲斎と話が弾んだという。浪士隊は、当地で一泊した後、大阪峠を越えて今庄宿へと向かった。


大庄屋飯田家

 飯田家の近くに猩々の杜と呼ばれる、樹齢数百年を越える欅の大木から成る森がある。この森に囲まれて、「猩々の宮」と称する祠がある。飯田彦治兵衛家の鎮守堂である。飯田彦治兵衛家は、文政十一年(1828)から安政六年(1859)までの約三十年間、池田郷の大庄屋を務め、苗字帯刀を許された家柄である。今も長屋門を備えた、格式を感じさせる佇まいである。


猩々の宮

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