史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

行田

2009年01月25日 | 埼玉県
(忍城址)

 忍城は、文明年間初期(15世紀後半)に成田氏によって築城された。戦国時代には、豊臣秀吉の命を受けた石田三成が水攻めによって忍城を攻め落とそうとしたが、攻略できなかった。以来、「忍の浮き城」と称されるようになった。その後、徳川家康の関東入国に伴い、家康の四男忠康(のちの忠吉)が入城し、城主は松平氏、阿部氏と引き継がれた。文政六年(1823)桑名から松平氏が移り、明治維新まで続いた。忍藩主となった松平氏は、家康の娘亀姫の子、松平忠明を祖とする家である。幕府への忠誠心は厚く、幕命に応じ、元治元年(1864)の天狗党の乱に際して、藩兵数百名を水戸、そして下総古河、常陸真壁まで送っている。しかし大政奉還以降、藩論が分裂し忍藩も迷走する。戊辰戦争前夜、大阪に派兵した忍藩は、そのまま鳥羽伏見の敗走兵に飲み込まれ、藩主忠誠以下辛うじて江戸まで帰還した。その後数カ月を経てようやく藩論は新政府に与することに決し、飯能における旧幕府軍の掃討戦、更に奥羽戦線にも参加した。


忍城三階櫓

 忍城は、明治に入って競売に付せられ、かつての面影は失われた。昭和六十二年(1987)に三階櫓が再建され、今も美しい姿を見せている。


水城公園

 水城公園は、忍城の外堀跡を利用して昭和三十九年(1964)に開園されたものである。本来、三階櫓はこの公園内(三の丸)にあったという。

(天祥寺)


天祥寺

 古墳というと九州や近畿地方の専売特許かと思われるが、意外にも関東にも広く分布している。殊にここ行田市埼玉には九つもの古墳が密集している。「さきたま古墳群を世界遺産に」とは、いささか行き過ぎの感が拭えないが、それにしても円墳、前方後円墳、大小とりどりの古墳が、狭い地域に存在している景色は異観である。さきたま古墳公園の中にある天祥寺は、忍藩主松平家の菩提寺である。古墳には目もくれずに、まっしぐらに天祥寺を目指した。
 JR行田駅の東口を出ると、観光案内所があって、そこで無料で自転車を貸してくれる。観光案内所の係の女性によると、「さきたま古墳公園まで自転車で三〇分くらい」というから、「まさかそんなにかかるまい」と高を括っていたが、実際にちょうど三〇分くらい要した。寒い日であったが、到着した頃には身体がほかほかとした。

墓地に入ると、直ぐに旧忍藩主松平家の墓が見つかった。左から十二代藩主松平忠誠(ただざね)、同十一代忠国(ただくに)、同九代忠尭(ただたか)の墓である。


旧忍藩主松平家の墓

 忠国は、天保十二年(1841)に家督を継いで以来、相次いで房総沿岸警備、品川台場警備を命じられた。文久三年(1863)に隠居して家督を忠誠に譲ったが、藩論が公武両派に分かれ対立したので、忠誠を補佐して政局を切り抜け、忍藩の安泰を図った。明治元年(1868)七月、五十四歳で逝去した。
 文久三年(1863)に藩主を継いだ忠誠は、京都警備を命じられ上洛。元治元年(1864)に江戸へ帰るや品川台場警備を命じられた。同年七月には天狗党鎮圧のため出兵した。慶応三年(1867)、大政奉還後の慶喜の警護のために急遽上洛した。大晦日に大阪城に入ったが、鳥羽伏見の戦闘に敗れた幕府軍とともに紀州に逃げて、海路江戸に帰った。慶応四年(1868)三月、新政府軍に帰順を表し、官軍を城に迎え入れた。翌年六月、三十歳の若さで世を去っている。

 以下、余談であるが、このさきたま古墳公園周辺が、埼玉県の名前の由来となった埼玉地区である。何故、県北辺に位置する、しかも知名度の低い埼玉が、県全体を代表する名称として通用することになったのだろうか。浦和でも大宮でも川口でも川越でも岩槻でも熊谷でもないというのは不思議と思いませんか。明治初年に藩から県が誕生する過程で、現埼玉県下の諸郡は合併分裂を繰り返した。どういうわけだか、その「トーナメント」で埼玉が勝ち残ったのである。これを研究するだけで結構な論文ができあがると思うのだが…。

コメント
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