史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

神田 Ⅳ

2020年07月11日 | 東京都

(安田グリーンパーク)

 神田錦町郵便局の向かい側に「学習院(華族学校)開校の地」を示す石碑がある(千代田区神田錦町2‐9)。

 

学習院(華族学校)開校の地

 

 明治十年(1877)、華族の子女の新時代の教育を施す場として、神田錦町に学習院が開校した。

 

(神田スクエア)

 神田クスエアの前に「電機学校発祥の地」碑が建てられている(千代田区神田錦町2‐2‐1)。

 明治四十年(1907)、この地に電機学校が設立された。のちの東京電機大学の前身である。

 

電機学校発祥の地

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錦糸町 Ⅶ

2020年07月04日 | 東京都

(両国高校)

 

国産マッチ発祥の地

 

 両国高校の京葉道路に面したところに国産マッチ発祥の地碑がある(墨田区江東橋1‐7‐14)。

 明治九年(1876)、フランス留学から帰国した清水誠(石川県士族)がこの場所に「新燧社」を設立し、我が国で初めてマッチの製造を始めた。その二年後には早くもマッチは輸出されるようになり、明治から昭和初期にかけて マッチの輸出は黄金時代を迎えた。戦後は広告マッチが流行し 生産量が拡大したが、昭和五十年代より使い捨てライターが急速に普及し、 マッチの生産量も急減した。

 

(五柱稲荷神社)

 

五柱稲荷神社

 

 五柱稲荷神社内に「勝海舟揺籃之地」と書かれた木柱が建てられている(墨田区緑4‐11‐6)。海舟は、八歳から十代後半まで旗本岡野孫一郎の屋敷地で過ごしており、そのことを記念したものである。

 

史跡 勝海舟揺籃之地

 

(すみだふれあいセンター)

 すみだふれあいセンター(墨田区緑4‐35‐6)の前に墨田区教育委員会の建てた説明板がある。勝海舟は、文政六年(1823)に両国にあった父小吉の実家、男谷氏の屋敷(現・両国公園)で誕生した。その後、父母とともに本所の旗本屋敷を転々としたが、天保二年(1831)頃、この地にあった岡野氏の屋敷に落ち着き、十代後半までの多感な時期を過ごした。岡野氏は、後北条氏の旧臣板部岡江雪を祖とする旗本で、文政九年(1826)十二月の屋敷替えを経て、翌年三月頃、当地に居住していた。家の経営費を捻出するための屋敷替えだったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わりに旧居の半分ほどしかない屋敷に移ったようである。幕府草創期から続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫していた。

 

勝海舟居住の地

旗本岡野氏屋敷跡

 

(秀和両国レジデンス)

 坪内逍遥が「江戸演劇の大問屋」と称した狂言作者河竹黙阿弥終焉の地である(墨田区亀沢2‐11‐11)。

 

河竹黙阿弥終焉の地

 

 河竹黙阿弥は本名吉村芳三郎。江戸日本橋の商家に生まれたが、遊興にふけって勘当され、遊蕩三昧の生活を送る中で細木(さいき)香以らと交流を深めた。歌舞伎を始め、狂歌や茶番などに通じ、二十歳で五代目鶴屋南北に弟子入りし、勝諺蔵を名乗った。後に二代目河竹新七を襲名し、嘉永七年(1854)に江戸河原崎座で初演された「都鳥廓白波」が四代目市川小団次との提携で大当たりをとり、「小袖蘇我薊色縫」「三人吉三廓初買」など、現在も上演される作品を次々と世に送り出した。七五調の美しい科白を巧みに生かして、幕末の人びとを生き生きと描き出し、三六〇編に及ぶ作品を残した。明治の新時代にも活躍したが、明治十四年(1881)に引退を表明し、黙阿弥と号したが、その後も劇作の筆を置くことはなかった。明治二十年(1887)三月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南二葉町三十一番地(現・亀沢2‐11)に自宅を新築し、転居した。周囲に堀をめぐらせた広い新宅は、南割下水(現・北斎通り)のほど近くでもあり、庭には潮入りの池や二階建ての土蔵、書斎とした四畳半の離れがあった。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれて、この地で六年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」、五代目尾上菊五郎のために「戻橋」などを書き残した。

黙阿弥は彼の作品とは対照的に穏やかで物静かな人柄だったといわれる。自らの死を予期した黙阿弥は、財産分与や蔵書の整理、友人への挨拶まわりなどを終えて、明治二十六年(1893)一月、七十七歳の生涯を閉じた。

 

(亀沢第一児童遊園)

 

三遊亭圓朝住居跡

 

 三遊亭圓朝は、江戸時代後期から明治にかけて活躍した落語家で、本名は出渕次郎吉といった。父は、二代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りした。

 初舞台は弘化二年(1845)三月で、その頃小圓太と名乗っていた。異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から離れ、池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住む谷中の長安寺で母と同居し、この頃の体験が新作怪談の創作に影響を与えたといわれる。

 その後、再び圓生の門に戻り、十七歳で圓朝を称した。元治元年(1864)に二十六歳で両国垢離場の昼席で真打となった。人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸を高度な次元に押し上げたとされる。明治九年(1876)十月に浜町から本所南二葉町二十三番地(公園の南側 亀沢2‐12‐7)に移り、明治二十八年(1895)に牛込に転居するまでの十九年間をこの地で過ごした。代表作に「真景累ヶ淵(かさねがふち)」「怪談牡丹灯篭」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結」など多数。明治三十三年(1900)没。年六十二。生前山岡鉄舟と交流があり、全生庵に葬られた。

 

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銀座 Ⅵ

2020年06月27日 | 東京都

(銀座四丁目)

 

成醫会講習所跡

東京慈恵会医科大学発祥之地

 

 銀座4‐4‐2の松屋通り沿いの植栽の中に隠れるように小さな碑が置かれている。この石碑は、明治十四年(1881)、男爵高木兼寛がイギリス医学教授を目的にこの地に成医会講習所を開いたことを記念するものである。成医会講習所は、のちに東京慈恵会医科大学へ発展した。

 

(銀座三丁目)

 

専修大学発祥の地

 

 銀座3‐14‐13の「花山うどん」の店の脇に円形をした小さな石碑がある。専修大学発祥の地碑である。専修大学は、明治十三年(1880)、経済および法律の専修学校として発足したことに始まる。創立メンバーには、相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格らが名を連ねる。

 

明治会堂跡

 

 「花山うどん」の前には中央区教育委員会が建てた説明板が建てられている。この場所には、明治十四年(1881)に福沢諭吉の発案により演説会場「明治会堂」が建てられていた。瓦葺木造二階建て、建坪六百二十平方メートルの擬洋風建築であった。

 当時の演説会場としては、三田の演説館など若干の施設はあったものの、多くの演説は貸席、劇場、料亭などで行われていた。そこで施設の整った演説会場が計画されたのである。会食もできる東京随一の演説会場であり、明治十五年(1882)には立憲改進党の結党式が開かれたほか、明治十六年(1883)には鹿鳴館に先駆けて西洋風の舞踏会も行われた。

 明治会堂は、明治十六年(1883)末、福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治十七年(1884)には厚生館と名称を変えたが、明治二十三年(1890)に民間に払い下げられた後、大正十二年(1923)の関東大震災で焼失した。

 

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高尾 Ⅵ

2020年06月27日 | 東京都

(川村家墓地)

 

裏高尾 川村家墓地

 

 来年(令和三年(2021))の大河ドラマの主役は渋沢栄一だという。新札の肖像に渋沢栄一が登場するというニュースも相俟って書店には渋沢栄一関連本が並ぶようになった。

 渋沢栄一は若い頃、挙兵して高崎城を奪い、横浜で外国人を襲撃するという騒動を画策していた。結局その計画は実行されなかったが、同志に八王子出身の真田範之助がいた。

 また若き渋沢栄一が一橋家の平岡円四郎に見いだされ、一橋家に仕えることになったのは有名な話だが、平岡に渋沢栄一、喜作を引き合わせたのが川村恵十郎(正平)といわれる。八王子出身者が大河ドラマに登場するのか今から楽しみである。

 川村は小仏関で代々関所番をつとめた川村家の出身。関所番は川村家のほか、直亮、直文兄弟を生んだ落合家、佐藤家、小野崎家という四家が担当した。

 川村恵十郎は、天保六年(1835)の生まれ。少年の頃より武技を好み、尚武の気性に富んでいた。竹林坊赤松光映に師事、その推輓で川越藩主松平直克に仕え、文久三年(1863)、京都に赴いたが、ついで一橋慶喜に仕えて過人となった。元治元年(1864)六月、一橋家側用人兼番頭の平岡円四郎が水戸藩士に襲撃され斬殺されたが、その場で二人を斬り伏せた。恵十郎も顔面に敵刃を受け、「傷の正平」の異名をとった。晩年の写真が残っているが、顔面に斜めの大きな傷跡が確認できる。このときの功により慶喜より十人頭に取り立てられ、禄二百石を賜った。慶應二年(1866)十二月、慶喜が将軍となると旗本の士として近侍し、慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見に敗れて江戸に帰るときも、さらに駿府に隠退するときも、常に慶喜に従った。のち明治政府に仕えて大蔵省、内務省に出仕し、明治六年(1873)、福岡県下に反乱が起こると、林友幸に従って西下し、これを鎮静した。ついで内務卿大久保利通の知遇を得て、明治七年(1874)、大久保が全権弁理大臣として清国に差遣されると、これに随行した。のち宮内省出仕、内閣記録局に勤め、明治十四年(1881)には天皇の東北巡幸に供奉した。官途を退いて後は、日光東照宮禰宜となった。劇作家川村花菱は実子。明治三十年(1897)、年六十三にて没。

 八王子市裏高尾町392‐5の川村家墓地は代々関所番を務めた川村家の墓地である。有刺鉄線で囲われた墓地にどう頑張っても進入することができず、柵の外からでは恵十郎の墓を特定することはできなかった。法名は「忠諤院殿直節純徳居士」。

 

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護国寺 Ⅴ

2020年06月27日 | 東京都

(護国寺つづき)

 

富田家之墓

 

富田家之墓

 

 富田鐵之助の墓を探して、護国寺の墓地を歩き回った。富田家の墓は五つほど見つけたが、鐵之助の墓と特定することはできなかった。

 一つ目の富田家の墓は昭和五十五年(1980)に建てられた比較的新しいもの。二つ目は墓地北側にある立派な墓石ながら、被葬者が誰だか分からない。

 富田鐵之助は、天保六年(1835)、仙台城下に生まれた。父は仙台藩士着座格富田壱岐。安政三年(1856)二十二歳で江戸に出て、勝海舟の塾に入り、蘭学、航海術、砲術を習得した。慶應三年(1867)、アメリカに渡り、翌明治元年(1868)帰朝した。その後、ニューヨーク総理事、清国上海総領事、イギリス公使館一等書記官、大蔵大書記官を歴任し、明治二十一年(1888)、第二代日本銀行総裁となった。しかし、松方大蔵大臣と議合わず翌年職を去った。明治二十三年(1890)、貴族院議員に勅選。翌年には東京府知事となった。明治二十七年(1894)辞した後は、富士紡績会社、横浜火災保険会社の創設などに活躍した。大正五年(1916)、年八十二で没。

 今読み進めている「クララの明治日記」では富田夫人(杉田玄端の娘)が頻繁に出てくる。社交的な女性だったようである。

 

従三位勲三等 下田歌子墓

 

 下田歌子は美濃岩村藩出身の女子教育家、歌人。嘉永七年(1854)の生まれ。明治五年(1872)から明治十二年(1879)まで女官生活を送ったのち、明治十四年(1881)に自宅で桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開き、上流家庭の女子の教育に当たった。明治十七年(1884)、宮内省御用掛となり、華族女学校の創設に参画し、明治四十年(1907)まで皇族や華族などの女子教育に携わった。他方で女性大衆への教育を目指して、明治三十一年(1898)には帝国婦人協会を結成し、翌年には同会付属実践女学校(現・実践女子大学)を創立した。また愛国婦人会や処女会中央部など、女性の国家的自覚を求める社会活動にも活躍する一方で、著作活動も活発に展開した。昭和十一年(1936)、八十二歳で没。

 

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田町 Ⅷ

2020年06月20日 | 東京都

(宝生院)

 

宝生院

 

日下開山横綱力士人幕久五郎碑

 

 三田の宝生院の境内を入って右手に陣幕久五郎の碑が建てられている(港区三田4‐1‐29)。右は大関陣幕島之助の碑である。

 なお、陣幕は現在も引き継がれている年寄名跡の一つであるが、陣幕久五郎を祖とする名跡は北陣である。

 

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白金台 Ⅵ

2020年06月20日 | 東京都

(光取寺)

 

光取寺

 

 最寄り駅は地下鉄白金台駅だが、住所は上大崎である(品川区上大崎1‐5-10)。墓地に十二代横綱陣幕久五郎の墓がある。

 

横綱力士 陣幕久五郎圡師通高墓

 

 陣幕久五郎は、文政十二年(1829)の生まれ。十九歳の時、尾道の初汐久五郎の門弟となり、翌年大阪の朝日山に弟子入りし、嘉永三年(1850)、江戸に出て秀の山電五郎の門人となった。安政三年(1856)、阿波蜂須賀候お抱え力士となり、陣幕久五郎と改め、通高と称した。翌年正月には不知火光右衛門を倒して好角家の血を沸かした。安政五年(1858)正月、初入幕。文久三年(1863)奈々月、東の張出関脇、慶応二年(1866)三月、関脇となり、同年十一月には鬼面山を越えて西の大関となり、ついで十二代目の横綱となった。松江松平候のお抱えから、慶応三年(1867)には薩摩島津候のお抱えとなり、明治維新の際には島津氏に協力して国事に奔走し、西郷隆盛の知遇を受けたといわれる。戊辰戦争では官軍の荷駄掛かりや、京都に上って薩摩藩主島津忠義の護衛を担当した。明治元年(1868)引退し、大阪相撲総長として角界振興に尽力する一方、再び東京に出て公共事業にも力を注ぎ、東京深川公園に横綱力士の碑を建てた。晩年は不遇だったといわれる。明治三十六年(1903)、年七十七で没。

 

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東池袋 Ⅴ

2020年06月20日 | 東京都

(雑司ヶ谷霊園つづき)

 

坂崎家之墓

(坂崎紫瀾の墓)

 

 坂崎紫瀾は嘉永六年(1853)、土佐山内家の医師坂崎耕芸直弘の二男に生まれた。長じて斌(さかん)と名乗った。墓石の背面に「斌 大正二年三月四日」と没年月日が刻まれている。慶應三年(1867)、十五歳で藩校致道館に入学。翌年には致道館文館教句読席係となった。明治七年(1874)、愛国公党に参加。ここで土佐を代表する政治家板垣退助と出会い、紫瀾は「板垣の右筆格乃至参謀の一人」と称されるほどの存在となった。一時司法省に出仕したが、ほどなく辞職し、松本新聞を皮切りにジャーナリストの道を進む。明治十三年(1880)には高知で百做社(ひゃっこしゃ)の社長となり士族授産に尽くした。その後、高知新聞編集長となり、ここで初めて小説の筆を執った。この頃、馬鹿林鈍翁と名乗って民権講釈を試みた。しかし不敬罪で禁錮三か月の判決を受け入獄。この裁判の時期、坂本龍馬を主人公とした「汗血千里の駒」を書いた。紫瀾は、今日にも繋がる龍馬像の原型をここで描いた。下獄後も新聞社を渡り歩きながら、吉村寅太郎、河井継之助、勝海舟、林有造、山内容堂などを題材に多くの小説を書き残した。晩年は「維新土佐勤王史」の編纂に心血を注いだ。明治四十四年(1911)には維新史料編纂会事務局の常置編纂員に就任し、国史編纂にも関わったが、そのわずか一年半後の大正二年(1913)没。【1種2号3側】

 

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本駒込 Ⅶ

2020年06月20日 | 東京都

(連光寺つづき)

 

山口泉處之墓

 

 三年前に山口泉処の墓を探して連光寺の墓地を歩いたが、発見できずに諦めた。そのまま放置していたが、先日吉盛智輝様から「連光寺にある」という情報をいただいたので、もう一度歩いてみることにした。今回は開始して五分ほどで泉処の墓を行き当てることができた。

 山口泉処は、天保元年(1830)生まれの旗本。泉処は号。名を直毅と称した。昌平黌で学び、安政三年(1856)には甲府徽典館の学頭となり、山口直養の養子となった。万延元年(1860)には目付となり、文久三年(1863)の将軍上洛に従って京都に上った。慶應元年(1865)以降、外国奉行、陸軍奉行、外国事務総裁などをつとめた。鳥羽伏見の敗戦後、慶喜とともに開陽丸で江戸に帰還。親仏派であり、勝海舟とは政見を異にしたが、維新後、向山黄村の主催する詩会「晩翠吟社」で漢詩に勤しんだ。困窮のため海舟から田安徳川家の侍講の仕事を斡旋してもらったこともあったという。明治二十八年(1895)、六十六歳にて没。

 

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東京 Ⅹ

2020年06月20日 | 東京都

(大手町パークビル)

 

内務省跡

 

 千代田区大手町1‐1‐1の大手町パークビルの前にこの地に内務省があったことを示す説明板が建てられている。

 内務省は明治六年(1873)、大久保利通の主導によって設置された機関で、地方・警察・土木・宗教など広範な行政を管轄し、強大な権限を有していた。初代内務卿には大久保利通が就いた。昭和八年(1933)に霞が関に移転するまでこの場所にあった。初代の建物は木造二階建てで、鉄製の門扉は当時まで珍しく、一目をひいたといわれる。江戸時代、この場所は姫路酒井家の屋敷があったとされる。

 

(大手門タワー)

 

市内最初の並木

 

 大手門タワーの内堀通り沿いに「市内最初の並木」説明板がある(千代田区大手町1‐1‐2)。

 明治八年(1875)、この道にニセアカシアを植えたのが、東京で最初の並木といわれる。蘭学者津田仙(津田梅子の父)が、明治六年(1873)、ウィーン万国博覧会の際に種子を持ち帰り育成したもので、外来種による東京市最初の街路樹であった。現在、植えられている街路樹は槐(エンジュ)の木である。

 

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